『概説 聖書考古学』1997/01/08 09:54

G.E.ライト 『概説 聖書考古学』

A.マザールは、パレスチナ考古学における聖書への関心に対して、
W.F.オルブライトや G.E.ライトによる考古学と聖書をある特定の見
方から結びつける伝統的な聖書考古学のあり方に疑問を呈しいま
す。
それは、考古資料を神学的な概念で解釈してしまうと、単純で原理
主義的な結論を導いてしまうと警告します。これが、例えば「カナン
征服」というようなテーマに現れていることになります。
一方、現代のパレスチナ考古学では、近代考古学の多様な手法
を利用しながら、伝統的な歴史的見解と結び付け、その姿を変え
つつあり、できるだけ客観的な資料を得ようとする傾向を指摘しま
す。(『聖書の世界の考古学』)

ライトは、「ハツォルは、ヒクソスの馬と戦車隊のための駐屯地で
あったろう」(p.67)、と記しています。

ハツォルが有名なのは、聖書に、ヨシュアが焼き払った唯一の町で
ある、と記されていることによります。

  「ヨシュアが焼き払ったのはハツォルだけで、その他の丘の上
   に建てられた町々をイスラエルは焼き払わなかった。」(ヨシュ
  ア記11.13)

ハツォルの発掘者、ヤディンによれば、ハツオルは丘の上だけでは
なく、下の町からも同時代に属する焼土層が発見されています。さ
らに、下の町では、この焼土層をもって町自体が終焉を迎えていま
す。丘の上の町のほうは、暫時の停滞の後、新たなる文化層が積み
重なっていますので、明らかに対比を成しています。ちなみに丘の
上には、神殿や宮殿が建てられ、いわば庶民というか平民クラスが
下の町で暮らしていたと考えられています。

ライトに戻って、ここで述べられているのは、ハツォルの「下の町」
の由来です。この町は、中期青銅器時代中期のある時期(紀元前
1750-1650年)に創設された、と発掘者は同定しています。この時
代、エジプトは国内が動揺していた第2中間期と呼ばれていた時期
で、ヒクソスが台頭して来ました時でもありました。また、メソポタミア
方面からはハンムラピがシリアに侵攻して来た時代でもありました。
そのようないわば動乱の時に、下の町は出現したのです。

ヤディンのハツォル発掘の目的の一つに、ライトが唱えたような説、
すなわち総面積200エーカーに及ぶ囲い地を堅固に構築された巨
大な陣営と考えていた、この囲い地の性格を明らかにすることがあ
りました。それは、そのような広大な町が、当時のカナンに存在しえ
たか、ということでした。他のカナアンの諸都市に比べて、10~15倍
も大きな町でしたから。

そこで、発掘で答えを見つけることになります。C地区と名付けら
れた地区に細く長い試掘坑(70×5m)を設けて掘り進めると、表
土の1m下で丸石を敷き詰めた床面、大量の土器片を伴った遺構
(第1a層)が出土しています。町であった徴候がありました。そ
して、最終的に、第4層まで現れてヴァージン・ソイルに突き当たっ
ています。これで、答えを見つけたことになるのかというと、まだ
でした。それは、たまたま、ここ(囲い地の南西隅)だけに小規模
の居住域が存在していたのだ、という反論があるからです。

  「頑固者たちを得心させる方法・・・『囲い地の真中に、目に
   とまる石や建造物とは無関係な、あてずっぽうの区画を選び、
   5×5mを発掘しようではないか。・・・」(ヤディン『ハツォール』)

こうして、そこからも同様の結果を得たことで、囲い地全体の性格が
住居址であると決められました。ライトの著書は、この発掘の成果を
見る前の一般論で書かれていることも記しておきます。

ヤディンの『ハツォール』は、W.F.オルブライトに献呈されています。
1950年代の後半に行われた発掘は、それなりの厳密性を有してい
ましたが、現在では、やはりオルブライト流と評価されてしまいます。

『古代オリエント文明』(P.アミエ)1997/01/10 15:58

from Perre Amiet, Les civilisationsantiques du Proche-Orient,
"Que sais-je?" No.185 (1977) 
    (近東の古代文明)

本書は、メソポタミア文明開花期(シュメールの都市形成期)に
重点を置いている。

アミエは、A.パロのオリエント考古学、J.ヴァンディエのエジプト
考古学、G.コントノーのアッシリア学の講義を受けた。

1950-54年、テル・エル・ファラーの発掘調査(R・ド・ヴォー)に参加

エラム学者

>シリアのアムル諸都市:

マリ神殿内陣壁画>

マリ王は、シリア特有の高い白冠と、花綱で飾られた絢爛たる衣装
を纏い、軍神イシュタール(女神が足を乗せている象徴動物が獅子
である)と推定される女神の紋章に手を触れている。
「手の儀式」と呼ばれる典礼の場面(新年などの行列行進)。

壁画制作時期は、ハンムラビによる第1回マリ占領後に、ジムリリ
ムの命令で制作された。発掘者アンドレ・パロは「王権神授の場
面」としている。

壁画で飾られた大中庭>

球状の壺を持つ脇役の女神(彫像)の壺からは水が迸り出るよう
に工夫されている。衣装上に刻まれた波状の線や魚は女神自身
が女神の具現している川の流水と一体をなしていることを示す。

マリ総督の彫像 in バビロン>

総督は総状の縁飾りのついた贅沢な衣装を纏い、メソポタミア
南部の住人たちの質素さとはまったく異なる趣向を見せている。

ハツォール1997/01/11 13:24

『ハツォール』(山本書店)

原題:Yadin, HAZOR; The Rediscovery of a Great Citadel
of the Bible, 1974.

1.なぜハツォールを選んだか?

ハツォールが士師に先立つ何世代も前のヨシュア時代にすでに
滅ぼされ、ヤビンは殺されていたとするならば、この町と王があら
ためて後の時代のこの戦いに、姿を現すということがどうして可能
であろうか?
  ヨシュア対ヤビン:ヨシュア記11-1~5、10~13
     「ハツォールは昔、これらすべての国々の盟主であった。
     ・・・ヨシュアはただハツォールだけを焼いた。」

  デボラ対シセラ:士師記4-1~3、23~24(5-19~20)

テルの層序は、XⅢ層が1A層と並行関係にある。XⅢ層居住址
はミケーネ土器により年代が確定された。しかしテルの遺物や
遺構は下の町ほど保存状態がよくない(後のイスラエル人がLBA.
層に掘り込んで、さらに建築材として再利用したから)。
XⅢ層とX層(ソロモンの町)との間になお二層発見した。もし
マザール=アハロニ説が正しく、ヨシュア記に記録された決戦が
士師記に語られているものの後で行なわれ、ハツォールが前12
世紀後半にヤビンのもとで最盛期を迎えたとするならば、ヤビン
=シセラ時代のハツォールをこの二層の中に発見しなければな
らないことになる。
先ずXⅡ層は、永続的な建造物をほとんど持たない半遊牧民の
居住址であった。LBA時代の町が壊滅した後に、すぐ別の町が
再建されたのではなく、半遊牧民が暫定的に定住しようとしてい
た様相である。それは一体誰なのであろうか?
決め手の鍵は、住居址やピットから出土した土器片であった。
これらがガリラヤ地方鉄器時代小集落址出土のものと実質的に
同じ(ピトス、アハロニ踏査)であることから、イスラエル遊牧民族
の定住生活化への最古の努力の姿を示している。
XⅡ層は破壊されたヤビンの町の上に存在していた。ヨシュア記
の物語は史実をもとにしており、一方、士師記におけるヤビンの
記述は後代編集者の加筆であったに違いない。
次に、XⅠ層(前11世紀)は防備をもたない集落の姿を示してい
る。X層(LBA時代の町が壊滅した後、300年経過)は、堅固に
防禦されたソロモンの町となった。XⅠ層B地区からは「高き所」
あるいは祭場かと思わせる建造物が出土した。それは、この区
画の南西遇から、青銅製神像(戦の神への奉納物)が発見され
たことによる。この「高き所」の異教的性格は士師記にしばしば
言及される礼拝所(「高き所」)であろう。

2.エジプト呪詛文書

紀元前2千年紀前半(前19あるいは18世紀のはじめ、第12
王朝時代)
西方セム語命名法に混じって、非セム語的な「グティ」(支配者
名)の記載が認められる。

3.マリ文書

錫の交易
ハンムラビのハツォール駐在特師の存在
イブニ・アダド(ハツォール王名)の省略形がヤビン

4.エジプト新王国時代(前16-13世紀)

ハツォールはカナアンの地における征服した町の一つ
(ファラオの勢力圏化にあっただけなのか?)
トゥトモス3世のメギッド攻略

前14世紀前半(1400-1350):
アメノフィス3世(ミタンニ、シリア諸都市との同盟維持)
アメノフィス4世(アマルナ時代。シリア辺境地方はヒッタイト領
へ。カナアンのエジプト従属諸侯の独立運動)
ヨシュア記に述べられているように、ハツォールの支配者のみ
が「王」と名乗り、また他の支配者からも王と呼ばれていた。
アブディ・ティルシ(フリ人?ミタンニ人?系の名)はヤビンより
約100年前の先祖で、強大で野心に満ちた支配者であった。

5.ミケーネ土器による年代推定

下の町の破壊は前13世紀:
1A(最上層)床面――ミケーネⅢB式土器(前13世紀特有)
1B層   ――ミケーネⅢA式土器(アブディ・ティルシの町)
※ フルマルク「ミケーネ土器の消滅は前1230年前後」

ヤディン「ハツォールの滅亡は前1250年と1230年の間」
―>ヨシュア年代ひいてはエジプト脱出年代への考古学上
   の証言の一つ

2層――LBA.Ⅰ(前16-15世紀)の土器、住居用建造物
     (MBA終期の大火災による灰の堆積上)
     トゥトモス3世時代

3、4層―MBA:
      住居床下に乳幼児甕棺葬
      ヒクソス・スカラベ(カナアンにおけるエジプト文化
      浸透)
      聖地出土の最も古い楔形文字刻印の壺
      (バビロニアの影響)

6.下の町の防御施設

MBAの防備:

MBAⅡ期の10~15エーカー程度の居住地域を有する小さな
テル上の町の防備(ラキシュ、シケム、メギッドなど)
周壁の下の防禦用斜堤とその練り土工法、町は斜堤の最上
部に巡らせた壁に囲まれていた。

シリア(カトナ、カルケミシュ、など)やカナアン(ダン)で、守護
しやすいテルの頂に町を建設するのではなく、防衛上不利な
地に下の町を建設した理由は、部族的あるいは人種的に結
合している集団の大規模な移動のゆえであろう。

ハツォールでは、移住集団はテルの北側の台地を選び、その
東側は天然の斜面で・・・居住民は西側で台地を仕切り、巨大
な壕を設け、その内側に掘り出した土砂で土塁を構築した。
そして土塁もまたテルの斜堤とほぼ類似の方法で築造されて
いた。・・・土塁の中心部に、頂部で8m、基部で11~16m幅
のレンガを積み上げた核が存在し、この核は二重構造壁’(ケ
ースメイト)となっていて、その壁間は玄武岩その他の小石や
土塊で埋められている。この中核部分に対し、いろいろな土を
ほぼ垂直に積み寄せた部分は三層をなしていた。(MBAⅡ期
後半)

下の町の門(K地区):

4層(MBA.ⅡB)8㎡の石造基礎の上に建てられたレンガ積み
の塔屋が門道を両側から挟んで建っている。門を土塁に結合
させる方法は1.5m位の厚さの二本の平行壁からなる繋ぎの
壁で結合されている。壁間をつき固めた土砂で埋めてあるか
ら、これは真正ケースメート・ウォールではない。門は土塁と
同時に建設された。
3層(MBA.ⅡC)最初の門を一部破壊して、その上に建てられ
ている。設計、構造、位置を変えている。テルに建てられた
パレスティナの町々に見られるこの時代の「古典的」な城門
である。門道には壁面から突き出した三対の柱が立ち、外側
と内側の柱には扉が設けられている。これにより塔や上屋の
建築を可能にした。この基本構造は鉄器時代を含めて、後代
に踏襲された。さらに、この門は土塁の肩部と真正ケースメー
ト・ウォールで結合されており、パレスティナで最古の出土例
である。
2層(LBA.Ⅰ)前層と同一設計。巨大な仕上げのよい切石で
築かれている。
1層(LBA.Ⅱ、Ⅲ)最後の二門も同一設計であるが、そこかし
こに手直し等の痕が認められる。1A層では、城門の終熄の姿
を示す、灰の厚い集積や門や塔屋のレンガ材を含んだ割れ石
が床面を覆っていた。大火災の中で最終的に破壊された証拠
である。

P地区を緊急調査(1968)した際、1B層門から1A層門への踏
襲に関して、わずかな手直しであったK地区とは趣を異にして、
敷居石近辺が雑な丸石で築かれていた。また、前時代(LBA.
Ⅰ)の城門下部はオートスタットで飾られていたが、城門が破
壊された後、壊されたオートスタットが建築材として再利用され
た。

7.下の町の興亡

年代学:
下の町の創建はMBA.ⅡBであることがハツォールの発掘で明
白となった。このことは、オールブライトの低年代を支持するよう
である。
※ ハンムラビの低年代=前1728-1686年

北方との結びつき:
発掘の結果、LBA.期におけるハツォールに及んだヒッタイト=
ミタンニ文化の強い影響である。カナアンの住民は、イスラエル
人の征服以前、多様な人種からなる複合集団であったことが
改めて出土物が証明した。

破壊:
この巨大な町は前13世紀の後半に大火災とともに終熄し、二度
と再建されなかった。最上層でのミケーネⅢB式土器片の発見
は、前1230年以前にこの町が存在していたことを示す。

ハツォール A地区1997/01/12 07:30

『ハツォール』(山本書店)


A地区:

XⅢ層(1A、前13世紀)で、ソロモンの城門(X層)の礎石下にお
いて、H地区のオートスタット神殿で出土したものと同一の仕上
げの美しいオートスタットが出土した。これは扉の抱き柱の一部
か建造物の入口のようであった。神殿は細長い長方形を呈し、
内法で東西16.2m、南北11.6mであった。入口の反対側にレンガ
と漆喰でしつらえられた台(南北5m、東西1.5m)が置かれ、多量
の奉納物が発見された。
この神殿は、MBA.Ⅱ(前18-16世紀)に創建されて、オートスタッ
トを用いた入口部分が後代になって神殿に加えられた。破壊され
た神殿の全域は壁から崩れ落ちたレンガの堆積で2mも覆われて
いた。この堆積の中から出土した最新の土器片はLBA.Ⅰ(XⅤ
層、前16-15世紀)に属していた。XⅣ層(1B層、前14世紀)、
XⅢ層(1A層、前13世紀)の遺物は出土していない。従って、
オートスタットは少なくともLBA.Ⅰに作られていたことになる。
   ※ H地区、1B・1A神殿オートスタット

この神殿は、最終的な破壊の後、再建されなかった。しかし、こ
の場所はおよび周辺の神聖性はXⅣ-XⅢ層(前14-13世紀)を
通じて保持されていた。
XⅣ層――頭部の丸い背の高い玄武岩角柱が頭を下にして立
       てられていた(C地区の石柱を逆さに立てた)
XⅢ層――小さな石碑と鉢(奉納物用)

神殿が二度と再建されなかったのであるとするならば、その穢れ
原因は何であろうか?

※ ウーリー「(アララク同時代神殿)ヤリム・リムの神殿にとり
        ついた穢れはその再使用を禁じた。神殿の場所は
        見捨てられ、廃墟は第Ⅳ、第Ⅴ層のゴミ捨て用の
        ピットで穴だらけにされてしまった」

この神殿は、また、近くに発見された王宮の一部であって、王宮
もまたはなはだしく破壊されかつ荒らされていた。この王宮は、
MBA.に建立されたと推測されるが、その後、青銅器時代の最上
層の廃墟址(前14-13世紀)の中で、H地区で触れた牝獅子の
オートスタットの前半分に遭遇した。これにより、上の町と下の町
のLBA.層を結び付け、ハツォールの王たちの宮殿がテル上に存
在していたことを立証してくれた。

地価貯水槽

宮殿と神殿の中間に発見された巨大施設。全長30mで、二つの
部分から成っている。一つは岩をくりぬいた下り傾斜のトンネルで
最深部がクローバ形の水槽(or 洞窟)で、他はトンネルに繋がる
通廊である。

XⅥ層(3層、前17-16世紀)
XⅦ層(4層、前18-17世紀、マリ文書) ヒクソス・スカラベ
小粘土板破片(不動産に関する刻文と、マリ時代のシュメール・
アッカド語辞書の一部)出土層とその場所は不明

ハツォールC地区1997/01/13 21:43

C地区(石柱神殿)

  頭部欠損人間座像(石造頭部が鋭利な道具で一撃のもとに頸部で
           打ち落とされていた)
           上衣の襟元は丸く、その部分から三日月形の
           飾りが弧を上にして胸に下がっている;月神
           紋章)40㎝H.
           Y.の見解は神像
  鉢形土器    (座像の傍らに伏せられていた)

  ――>  埋め土の中に放り込まれたもので、本来、そこに安置さ
      れたものではない

  一列に並んだ十基の石柱群と(供物台としての)玄武岩板石:
      神殿の石柱は、死亡した王あるいは祭司を記念する碑石
      ――> 次のシーズンに、神殿に隣接する土塁斜面の低
          部で、未完成品の石柱17基を発見した。
      聖書に謂う「祭儀上の石柱」

      浮彫の施された中央柱(二本の腕、三日月とその中央に
           位置する円盤、二つの小さな房飾り状のもの)   

  6225室:
      陶工の仕事場(神殿関連の倉庫と土器作業場)
      土器小面
      ハツォール・ピトス(大型の貯蔵用甕形土器)
      青銅地銀貼り祭儀用幟(蛇女神の表象)
      ――>石柱神殿との関連?(三日月のシンボル)
         幟の女性は、この神殿の女神、つまり月神の配偶者
         であるのか?

  1A層:この地区最後のカナアン人居住層
      土塁の麓に建てられた神殿は、外敵の手によるばかりでは
      なく、自然の風雨によっても繰り返し破壊され、これらの
      品々は見捨てられ、崩れた土砂の中に埋没してしまったと
      いうことは可能である。
      そうであるにしても、上層で出土した大部分のものは古い
      相に属し、1A層の人々が神殿を再建した時、これらを二次
      的に再利用した事は明白である。
      (聖所の伝統は一時的なものではなく、同じ場所に代々建
      て続けられる、ということ。1A層神殿は1B層神殿の復元)

ハツォールF地区1997/01/14 21:46

F地区(二重神殿)

  1A層-1B層
      祭壇
  
      L.B.A.Ⅱ期の墓:
         ミケーネⅢA-B式土器(8065墓)
         トゥトモス四世銘スカラベ(8144洞穴墓)

  2-3層
      M.B.A.Ⅱ期末の大規模建築物(排水溝):
         ハトホル(エジプト女神)類似の象牙製土器栓
         ――>全域が一風変わった当時の神殿なので、
         この女性は女祭司か、あるいは神殿に仕える者
         の妻か娘であった?

         バイクローム(二彩土器)
         ――>次に続く層年代が、前1400年以前(1B層
         スタート)で、しかも前1550年以後(M.B.A.Ⅱ
         エンド)
      L.B.A.Ⅰ期の方形神殿(M.B.A.Ⅱ期建築物の上に)
         cf. アンマン神殿

  3層
      二重神殿(巨大建築物、46x23m)
         cf. アシュールの二重神殿との類似
           ――>太陽神シャマシュと月神シン

         ――>ハツォールとメソポタミアの接触

ハツォールK,P地区1997/01/15 21:48

K地区(城門)

  1A層門:H地区1A層神殿同様、大火災の内に破壊された。

  1B層門

  2層門(L.B.A.Ⅰ、前16-15世紀)ハツォールの文化と技術の華

  3層門(L.B.A.ⅡC)真正ケースメート構造、パレスチナ最古例

  4層門(L.B.A.ⅡB、前18-17世紀)ハツォール最古の門

P地区(城門)

  K地区と同様の5つの継続的な門の遺構

『オリエント考古美術誌』1997/01/20 08:24

杉山 二郎『オリエント考古美術誌』NHKブックス386

いささか古い本(昭和56年)なので、コンテクストを追うのに
骨が折れました。しかし、読後感はズシンとありました。

西アジア世界における文化形成を考えるには、南北軸と東西軸
とがどのように絡み付いていくのかを紐解いていかなければな
らない、と著者は主張する。これらの両軸に絡む民族として、
ベドウィンの可能性を探り、論考を進める。そのときに、遊牧
性と海洋性を表と裏の関係にある、いわば一体のものであるこ
とに、著者は注目している。ベドウィンが海に乗り出す契機となっ
たものに「香料の道」がある。香料の最大消費地エジプトに向け
て、アラビア半島からレバント経由で海路運んで行く。そのような
移動のうちに各要素が収斂されて、フェニシアンの謎解きに通じ
て行く。フェニシアンは、この貿易従事者のエジプト人との混血者
であるというのである。彼らは、エジプト社会から追い払われた。
それであるがゆえにエジプト文化を濃厚に宿しているのである。

その後、ヒッタイトが北から南北軸を下りて来て、カナン人が
東西軸を東へ進み、それらのうねりが第一次のアッシリア帝国
へと刺激を与えて行ったと解説される。

細部的には分からないことが多いのですが、大きな流れを描いた
ことに刺激を受けました。

『メソポタミアの王・神・世界観』1997/01/21 07:50

前田徹 『メソポタミアの王・神・世界観』

 『歴史はスメールに始まる』といわれています。ところがシュメー
ルには過去を体系的に叙述した「歴史」は無いそうです。それに
代わるものとして、「シュメールの王名表(太古からの王朝の交代
と歴代の王を記しています)」があるということです。

 前田徹は『メソポタミアの王・神・世界観』の中で、王名表の内容
を吟味するに際し、従来の「年表としての歴史」理解を改め、「神
話としての歴史」を参考に考えて行きます。
 シュメールにおける神話的時間観念を特徴づける第一のものは
「遠き日」(永遠の昔)です。第二のものが「メ」です。
 「遠き日」は、原古の、創造の時を指し、現在に連続する時間で
はなく、次元を異にする神々の時間です。「メ」は、この世の秩序
が秩序としてある根源で、神的な法則、規則のことです。シュメー
ル人がこれを想定したことは、原古に定められた不変の状態、
完全な状態を思慕していたと考えられます。

 「年表としての歴史」を解説したスパイザーによれば、文明の
開始>大洪水>エタナの危機>キシュとウルクの対立>サル
ゴン・ナラムシンの時代の五段階で王権が確立して行きます。
 それに対して、「神話としての歴史」は、シュメール人の過去の
見方です。草創のときに神から完全な形で人間世界に下された
文明・文化と「今」との断絶をみます。そこに神の秩序を維持する
一環としての英雄的行為が、規範として求められます。神々の時
代と人間の歴史世界とには違いがあります。死の運命が待ち受
ける不完全な存在である人間が織り成す「歴史」という「時」は、
創造の「時」とは明らかに違っているのです。

 王たるものは、その英雄的行為で「遠き日」を再現させることを
意識しているのです。

『アナトリア発掘記』1997/01/22 07:58

大村 幸弘『アナトリア発掘記』(NHKブックス)

『鉄を生みだした帝国』で、ヒッタイトの鉄を追い求めた
著者の、その後の20年を綴ったもの。

完璧なアプローチとはならなかった忸怩たる思い、それを
解決するために是非とも必要な「自前の遺跡」。
ある種の僥倖により、発掘権を”カマン・カレホユック”
遺跡において獲得したこと。そして、20年間掘り続けた
報告。

製鉄遺跡をひたすら探しつづけた著者は、今度は一つの遺
跡を根気よく掘り続け、歴史の重なりを一枚、一枚剥がして
行きます。目的を持つことなく、文化層の一枚、一枚の記録
の完全性をめざして。それは、カマン・カレホユックの文化編
年を構築するという考古学本来の使命を果たすためです。

そして、この遺跡でも製鉄遺物を発見し、製鉄は何ヶ所かで
行われたのであろう、と前著の主張が一部変更されました。
しかし、相変わらず、製鉄用の「炉」は発見されません。

この遺跡での最大の発見、と私が感ずるものは、所謂「暗黒
時代」(前1200年頃~前800年頃の古代ギリシャ文化の停
滞)の文化層が出土したことです。この時代のヒッタイト
の地にやって来たのは何者でしょうか?これも一筋縄では
行きません。「手づくね土器」を携えてブルガリア方面か
らやって来た民族なのか、あるいは「曲線文様土器」をキ
プロス方面から持ち込んだ民族なのか?
容易に判定できる事柄ではありませんが、とにかく「暗黒
時代」に一筋の光が射したのです。