イスラエルの宗教とカナンの宗教1997/04/03 17:05

from 『概説 聖書考古学』 G・E・ライト著(1964年)山本書店

>神と神々

 神々は、その世界の成素であり力であって、擬人化され名を与え
 られた。神々の生きる本来の場はこのような自然界であり、自然
 の生きていることは、その神々の生きていることであった。

 世界の外側にそれを創造したものがいたわけではなく、世界の初
 めに関する考えは、原初の動かざる混沌の先まで行くことが出来
 なかった。この混沌は、原初の大洋または「渕」で、地上の塩水と
 真水はそこから来たと信じられていた。

 メソポタミアではこの「淵」がアプスティアマトという一対の男女に
 擬人化されて、創造は、この両者にによる性的な産出力によって
 始まった。両者は一連の神々と、当時知られていた宇宙の諸元
 素とを生み出した。神々の間で宇宙的な戦いが行われ、王をいた
 だいた軍勢が動かざる混沌を打ち破った後に、秩序は確立した。
 アプスは魔術で殺され、ティアマトは二つに裂かれて一つが天に
 もう一つが地になり、神々は分かれて一半は天に他は地にあり、
 各神々に任務が課せられていた。人間は地上の卑しい仕事をな
 すべく、神々の奴隷として造られた。人間の王は神々の会議に
 より選ばれ、地上の社会的秩序の維持を申し付けられた。
 社会は人間の仕組みであり、創造や啓示の秩序ではなかった。
 生命は儚いもので、創造の戦いは新年の祭儀的な劇のなかで
 毎年戦われねばならなかった。その中で王は神々の王の役を
 演じた。

 エジプトでは、同様に一回きりの、そしてまた年々(また日々の)
 戦いがレーによって混沌と暗黒の竜に対して行われた。
 しかしエジプトにおける生命はメソポタミアのそれほど不安定で
 はなかった。勝利は常に確保され、社会と世界の秩序は安定し
 た調和のとれたもので、創造の秩序に基礎を置いていた。・・・
 原初の王レーのいます丘の、混沌の海からの隆起のそもそもの
 始まりは自瀆行為によるとされた。地上の社会秩序の安定は、
 王が人間ではなくレーの子で、受肉した神とされることにより確
 保された。

 カナンの創造の教義は、主な点では明らかにバビロンのそれと
 類似しているが、多くは不明である。
 創造は神々の王バアルと原初の混沌の竜レビヤタン(ロタン)
 またはヤム(海)との間の戦いとして記された。

 旧約では、この混沌の象徴が一連の比喩に用いられ、
 レビヤタンや海とともに蛇、ラハブ(竜)の語が用いられている。
 「あなたは、御力をもって海を分け
  大水のうえで竜の頭を砕かれました。
  レビヤタンの頭を打ち砕き・・・」 詩74-13~
 「あなたは誇り高い海を支配し
  波が高く起これば、それを静められます。
  あなたはラハブを砕き・・・」 詩89-10~
 「日(海?)に呪いをかける者
  レビヤタンを呼び起こす力ある者が・・・」 ヨブ3-8
 「その日、主は
  厳しく、大きく、強い剣をもって
  逃げる蛇レビヤタン
  曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し
  また海にいる竜を殺される。」 イザヤ27-1
 「奮い立て、奮い立て
  力をまとえ、主の御腕よ。
  奮い立て、代々のとこしえに
  遠い昔の日々のように。
  ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは
  あなたではなかったか。」 イザヤ51-9

 これはまた黙示録の「生き物」の起源であり、その滅亡は
 「海もまたなくなった」(黙21-1)と述べられている。

~多神教徒は、創造を自然界の様々な間の闘争という方向に考
 え、また世界の秩序の維持を多くの意志の調和という行き方で
 考えた。秩序の一部の原則は創造の時に確立され、神々でさえ
 それに遵うと考えられた。人類には人類の運命があり、生まれ出
 る前にその方向は決められていた。

~聖書の信仰では、そのような世界秩序のいかなる原則も信ぜ
 ず、人類への、確定した非人間的宿命をも信じなかった。
 聖書の世界秩序は、固定もせず、永劫でもない。神は隠れたる
 世界との戦いに従事したもうので、いま見えているものが最終的
 のものではない。

~自然に関しては、最も重要なことの一つが、夜と昼の交代と季節
 の規則的な循環という秩序だった動き。
 多神教における生活と歴史とでは、その終わりなき循環には自然
 界の諸力が働いていると信ぜられた。多神教徒の基本的な宗教
 文学は地上の人間の生命にも歴史にも無関心で神々の生活に
 のみ関心があり、神々の生活とは自然界の生き方であったことを
 意味する。
 
 聖書は神を、歴史を支配する主と宣言する。神は自然の擬人化
 でもなく、自然界の如何なる成素でもない。神は唯一独立の自ら
 立つ根元でありまだ自然の創造者であって、それはすべてである。
 創造者としては造られたものからはっきり区別され、支配者であっ
 て支配されるものではない。この意味でイスラエル人は創造を闘
 争と見ることhできず、唯一の神の行為と見る。
 創世記一章は神に始まり、その神は創造の前に存在する。
 
 とはいえヘブル人の思想も、多神教の如くに、深い水の渕と原初
 の暗黒から出発している。
 渕を表すテホムという語は、もともとはバビロニヤのティアマトと
 同じ語である。けれども、この「渕」は竜でもなければ人格化され
 たものでもない。神は世界を造るとともに世界の時、昼と夜、週、
 季節をも創造した。創造はヘブル人には神なき物質論的な型で
 はなく、時と歴史の始まりとして示された。

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