2006.06.012005/06/01 10:41

一年目

   レジの間に
   話がはずむ
   ひととせか

この六月は、安曇野に移って、一年が経とうという
節目の月です。スーパーでレジを待つ間、立ち話
が弾みます。

2005.06.042005/06/04 16:53

   糞たれて
   便秘ですとは
   これ如何に

GHのメンバーさんが、鼻風邪をひきました。投薬の効果があり、
風邪はすぐに治りました。三日間の服薬中、「大」は止まってい
ました。そこで、四日目の夕方から白湯を飲ませていたところ、
就寝前に大量に排出しました。翌日、大安心で、送迎バスに乗せ
たところ、施設より嘔吐した旨の電話がありました。
早速、医療担当に迎えに行ってもらい、その足で医者に見せるよ
う手配しました。専属の町医者(内科)は、病院で検査するように
と手続し、外科で原因がわかりました。まだ糞が腸内に残留し、
それが蓋のようになって、ガスが充満している、とのことでした。

2005.06.062005/06/06 05:15

   ひととせと
   訪れしひとの
   見たものは

そろそろ一年ですね、取材に伺ってもいいですか、と
電話が入りました。開所のときに取材をされた記者さん
で、食器もたくさん御寄贈くださった方です。
そこで、「播隆シンポジウム」へ行く予定でしたが、
待っていることにしました。当日担当のボランティア
さんにも残っていただき、ボランティアさん二人と
メンバーさん二人とが一緒に取材を受けました。
私は別室で、自閉症のパニックに付き合っていましたので、
彼らが何を話したのかは知りません。掲載される日を
楽しみに待ちましょう。

2005.06.132005/06/13 09:33

  浅間温泉

   石庭の
   白きに奪はる
   森の中

松本市内には、駅から徒歩で30分余のところに温泉街があり
ます。浅間温泉といいます。その名が浅間山を連想させる、
とのことで最近、改名騒動がありました。結局、看板から
はじまりその他もろもろの費用がかかりすぎる故か否かは
分かりかねますが、沙汰止みとなりました。
このことから推測されますように、かつての賑わいは過ぎ
去ったままのようでした。
早朝、露天風呂に浸かり、散歩に出ました。早くに訪れて
も、差し支えのない所は寺社と勝手に決めていますので、
神宮寺を地図で見つけました。訪れましたら、市内を一望
できる高台に、山の自然に抱かれて、ひっそりと佇んでい
ました。

2005.06.142005/06/14 12:07

  浅間温泉(続)

    八本で
    大根立ちて
    蛸のよう

「浅間湯芽市」という朝市が、七時より開催とありました
ので、帰りに寄ってみました。野菜が主でしたが、若女将
が温泉饅頭の売り子をしたりしていました。パン屋さんは
ちょっと違和感がありましたが、徐々に変わってゆくので
しょう。
八本足の大根が目を引きました。
私は気が短いが、旦那は反対で、ゆっくりと切らずに、
よく掘りあげたよ、とマスコット替りにおいてありました。

2005.06.152005/06/15 05:10

  ものくさ太郎

   寝て起きて
   女さらえば
   貴人とな

「三年寝太郎」とも称される「ものくさ太郎」伝承の
発祥の地にお邪魔しました。ちょうど松本市の文書館
が近くにありました。

元住んでいた県では、「平家物語」から派生した「源平
闘淨録」を国文と歴史のコラボレーションで読みました。
今度は、その逆で、数ある伝承の中からオリジンを探る
試みに、やはりコラボで期せずしてなりました。

国文の先生(大学助教授)には、奈良絵本からはじまり
「ものくさ太郎」を各種取り揃えて、お出で願いました。
文書館には、伝承地にまつわるお話を依頼しました。

この地域は、S集落とN集落が地続きで存在するにも
関わらず、完全に異なる水系によって開墾されていま
した。太郎伝承が残るのはN集落です。開墾された時期
はSが9世紀で、Nが11世紀です。
Sは、当初の開発後、荒廃して11世紀に再開発されて
いました。この再開発をになった集団が越後平氏の
城氏で、諏訪神社と結んで実行しました。現在でも
「御柱」を祭る沙田神社(いさごだ)が鎮座します。
一方、Nは在庁官人系の開発のようで、全国的な新田
開発の一環のようでした。したがって、太郎は三年の
ただ飯の義理を都での夫役で払うことになり、その時
の口説き文句が「都にはいい女が沢山いる、嫁を取れ」
というものになりました。当時は「辻取り」という習慣
がありましたから。それでも和歌のやり取りがあって、
叡慮にまで達することになりました。
ここには都との関わりがあり、しかも都風の習俗が濃厚
であるところから、物語は都で作られ、この地に伝えら
れた可能性が高いということになりました。

最近、王子様なる、辻取りの変化バージョンが現れまし
たね。

2005.06.172005/06/17 05:10

山博・企画展

   播隆の
   綱をたぐりに
   山博に

(大町)市立大町山岳博物館 企画展「播隆・槍への道程」を
拝見しました。槍ヶ岳開山僧の播隆は、松本駅々頭に立って、
登山者を今でも迎えています。
企画展を取材してきました記者さんが、あれだけ集めたところ
に価値があると仰られましたので、出かけてみました。
展示品の中に、「ワラナワ」が一束、参考展示として出され
ていました。ジョークなのかユーモアなのか戸惑いましたが、
企画の副題に、「善の綱をたどれば」と付けられていますので、
キャプションを読みますと、四回目の登頂時、ピーク付近に、
後の登山者の為に藁製の太い縄を木製の鈎で岩壁に掛けた、と
思われる由。ご本尊仏像と五色の糸で結ばれる様なものです。
もちろん、今は鎖に替えられています。

1826(文政9)年、初登頂
1835(天保6)年、五回目の登山(最後)
1840(天保11)年、往生

2005.06.192005/06/19 09:15

   避難所の草刈


   雨降らず
   草刈するも
   芝枯れて

とにかく雨が降りません。平年の4パーセントとのことです。
挨拶は、「畑に水遣り」をしたのかどうかです。
川(水路)には水が流れていますので、水田灌漑用水は大丈
夫の様です。けれども、人間のほうが枯れ初めて来ましたよ
うな気分です。

2005.06.212005/06/21 09:18

   一年目(続)


   さてはこそ
   いつしかすぎて
   ひととせと

足の爆弾はそのまま変わらず、山を見るだけの日々が
続いています。山を見る楽しさに目覚めつつあります。

支援費や介護保険に関しての、国政レベルのお話に対
して、どう思うかと訊ねられますことが時にあります。
そうなんですか! 私は『市民タイムス』しか読みま
せんので、と答えます。

2005.06.232005/06/23 20:21

  『東京人 7月号』


   思わずに
   「唐と若松」
   並び立ち

雑誌を、その表紙タイトルで買う。そのような買い方を
久しぶりにしてしまいました。
唐十郎の紅テント。李礼仙、麿赤児、四谷シモン。今、
振り返っても好いものを見せていただいたものです。し
かも、早稲田小劇場もあり、こちらは鈴木忠志と別役実
のコンビでしたからね。しかも、彼らの上に超然と、寺
山修司も活躍してましたけれど、彼は渋谷派に入れられ
てしまったのですかね。
年表では67年になっていますけれども、「腰巻お仙」は
66年の戸山の原っぱで公演したはずです。これに、土方
巽も関係していたはずです。
ピンク映画の若松が、ベルリン映画祭に出品された時の
逸話。今、読んでも、当時の時代の息吹が甦ります。権
威というものの駄目さかげんを肌で知ったことは、東大
安田砦と若松ピンクの影響ですね。
当時のホットスパーは、なんと言っても言語表現よりは
肉体表現を過激に追求したことです。小劇場の鈴木氏で
も、白石加代子を得て、脚本が空白に等しい『劇的なる
ものをめぐって』にいったわけですし、これなど、見た
か見ないかで全てが決まってしまいます。
この約三十年後に、四谷シモンを人形師として知る女性
と出逢ったり、土方をアーカイブ化し始めた慶應のアー
トセンターで再体験したり、時の流れとは面白いもので
す。これで、静岡芸術劇場芸術監督の手になるギリシャ
悲劇などを鑑賞すると、歴史の環が閉じそうで怖いです。
でも、義経はナレーション聞くべく見ています。