『ペスト』#172020/05/06 16:36


>この天災との戦いを続けているすべての人々を次第に冒しつ
 つあった疲労困憊状態の最も危険な結果は、外部の事件や他
 人の感動に対するこういう無関心さの中にはなく、むしろ彼らが
 自ら陥るに任せている投げやりな態度の中にあった。
 人々は次第次第に頻繁に、彼ら自身が規定した衛生規則をな
 おざりにするようになり、自分の身に行うべき数多くの消毒のあ
 るものを忘れたり、時々は伝染に対して何の予防の用意もなく、
 そこにこそ真の危険が存在したのであって、彼らは結局、僥倖
 に賭けていたわけであり、しかも僥倖は誰の味方でもないので
 ある。
 
>ところが、この町の中で、一向憔悴した様子も気落ちした様子
 もなく、さながら満足の権化という姿を保っている人間が一人
 あった。コタールであった。彼は他の人々と関係を保ちながらも、
 依然として一人だけ皆なから離れていた。この小男の金利生
 活者の上機嫌は確かに成長しつつあった。
 「そりゃ確かに、一向によくなりゃしませんがね。しかし、とにか
 く、皆なが同じように巻き込まれてるんですから」

 彼は自分がペストに罹ることがあり得るとは本気で考えてはい
 ないのである。彼の考えは何かの病あるいは深刻な煩悶に悩
 まされている人間は、それと一緒に他のあらゆる病気あるい
 は煩悶を免除されるという考えに基づいて生活しているように
 見える。
 <あなたはこういうことに気が付いたことがありますか、人間は
  いろんな病気をかけもちすることができないんですよ>・・・
 <仮にあなたが、本物の癌だのちゃんとした肺病だのっていう
  ような、重症とか不治とかいう病気に罹っているとしてごらん
  なさい、あなたは決してペストやチフスに罹りゃしませんよ。
  そんなことあり得ないんです>
 
 真偽はともかく、こういう考えがコタールを上機嫌にさせている
 のである。市民たちが呈している懊悩と混乱の兆候を、「とに
 かく、話してごらんなさい。こっちは、あなたなんかより前に、そ
 ういう思いをしたことがあるんですから」という言葉で表現され
 得るような、寛容な、理解のある満足の念をもって考察するた
 めの十分な根拠を持っていたのである。・・・
 
<連中を一緒にならせる唯一のやり方は、やっぱりペストを
  差し向けることですよ>

 世間皆なを自分の仲間に引き入れようと、誰も彼もが試みて
 いる努力、道に迷った通行人に時たま道を教える際に人々
 が振りまく親切さと、かつてはそういう場合に見せつけられ
 た不機嫌さ。「要するに、ペストが彼にとってうってつけのも
 のである。孤独なしかも孤独であることを欲しない一人の男
 を、ペストは一個の共謀者に仕立てた。しかも悦に入ってい
 る共謀者である。彼はその目に映る全てもの、つまり、様々
 の迷信、切迫した人々の心の感じ易さ、できるだけペストの
 話をすまいとし、しかもそのくせひっきりなしにその話をした
 がる彼らのおかしな傾向、苛立たしく、感じやすく、要するに
 不安定で単なる失念を侮辱と取ってしまい、半ズボンのボタ
 ンを一つ失くしたことを嘆き悲しむような感受性など、これら
 すべてのことの共謀者である。

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