『ペスト』#182020/05/07 09:54


>コタールが数ヶ月、公衆の場所に求めていたもの、豪奢と
 余裕のある生活も、彼が夢見ながら遂にその望みを満足さ
 せることができなかったもの、即ち羽目を外した享楽も、今
 では住民全体がそれを追い求めていた。あらゆるものの値
 段はとめどもなく上がっていたのに、人々がこの時ほど金を
 浪費したことはなく、そして必需品が大部分の者に欠乏して
 いた反面、この時ほど余計なものが乱費されたことはなかっ
 た。実は休業状態であるにすぎぬ有閑性から生まれるあら
 ゆる慰みが、様々の形で増えていくのが見られた。
 以前は二人連れの一組を結びつけているものを一生懸命隠
 そうとしていたその人々が、今では互いにぴったり寄り添って、
 飽きもせずにいつまでも町なかを歩き続けながら、大きな情
 熱に見られる少々思いつめたような放心の中で、周囲の群
 衆も目に入らぬ様子であった。
 そしてコタールは大声で喋り、集団的な熱っぽさや、周囲で
 ばら撒かれる豪勢なチップや、眼前に繰り広げられる数々
 の艶事の中でのびのびとうちくつろいでいた。

 コタールは今の状況がそんなに恐ろしいことではないことを、
 できたら説明してやりたいくらいで・・・<あの連中がよく
 言ってますよね、ペストが終わったらこうしよう、ペストが終
 わったらああしようなんて・・・彼らは自分でわざわざ生活を
 暗くしてるんですよ、黙って平気でいればいいのに。おまけ
 に、彼らのほうの有利な点さえ理解できないでいるんです
 からね。彼らが不幸なのは、自分で心の手綱を弛めない
 からですよ>。

 彼はオランの住民たちの矛盾をありのままに批判している
 のであって、住民たちは彼らを近づけ合う温かなものへの
 欲求を深く感じていると同時に、しかもまた彼らを互いに遠
 ざける警戒心のためすっかりそうなりきることもできないでい
 るのである。隣人に信用が置けないということ、こっちの知
 らぬ間にペストを持って来られたり、うっかりしているすきに
 乗じて病毒を感染させられたりしかねないということが、あま
 りにもよく分かっているのだ。
 ペストが今日か明日にも彼らの肩に手をかけるかもしれず、
 ひょっとすると、こっちが未だ無事息災であることを喜んで
 いる瞬間に、ちょうどそうしかけているかもしれない。・・・
 ともかく可能な範囲で、彼は恐怖の裡に安んじているので
 ある。しかし、彼はそれらすべてのことを彼らより先に味
 わったのであるから、この不安のむごたらしさを完全に彼ら
 と一緒に感じることは、彼にはできないのではないかと思う。
 未だペストで死なない我々一同と同様に、彼も自分の自由
 と生命とが毎日、もう明日にも破壊されそうになっているこ
 とは十分感じている。しかし、彼自身恐怖の中で暮らした
 覚えがあるので、他の連中が今度はそれを経験することを
 普通のことと思っているのである。そうなるとその恐怖も、
 彼がたった一人でそれに堪えている場合ほどには重荷で
 はないように、彼には思われる。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://shoyuclub.asablo.jp/blog/2020/05/07/9455253/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。