『ペスト』#21 ― 2020/05/10 12:16
>ある瀆神的な著者が、煉獄なるものは存在しないと断言し
たことがある。中途半端な度合いというものは存在しないと
いうこと、天国と地獄だけしか存在しないということ、そして
人は自ら選んだところに従って救われるが、あるいは落と
されるかする以外にはあり得ないということであった。
これは、神父の言うことを信ずるならば、放埒な魂の中にし
か生まれ得ない類の異端である。何故なら、煉獄というも
のはやはり存在するからである。しかし、確かに、そういう
煉獄があまり期待されるべきではないような時代があり、
赦免されうべき罪などということを口にしえないような時代
がある。
すべての罪は大罪であり、すべての冷淡さは罰せられる。
全かしからずんば無である。神父は、彼が言っているような
全的な受容という徳は、普通に考えられているような狭い意
味に理解されるべきではなく、それは月並みな諦めでも、困
難な自己卑下ということでさえもないとする。
これは屈従であるが、しかし屈従する者が自ら同意してい
る屈従である。確かに、子供の苦しみということは、精神に
とっても心情にとっても屈辱的なことである。しかし、それ故
にこそ、その中へ入って行かねばならないのである。神が
望み給うが故に、それを望まねばならないのである。
>このようにしてのみ、キリスト者は何ものも見過ごすことなく、
しかもすべての出口を閉ざされて、本質的な選択の深奥に
向かい得るであろう。彼はすべてを否定する羽目に陥るま
いとして、すべてを信ずることを選ぶであろう。そして、今こ
の瞬間にも方々の教会で、健気な婦人たちが、患部にでき
るリンパ腺腫は身体がその病毒を排除する自然の方法な
のだと聞かされて、
「神様、どうかあの子にリンパ腺腫をお授けくださいます
ように」
と言っている様に、キリスト者は神の意志に、たといそれが
不可能なものであろうとも、身を委ねる術を知るであろう。
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