『ペスト』#242020/05/15 16:10


>「僕(タルー)はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前か
  ら、既にペストに苦しめられていたんだ。世間には、そうい
  うことを知らない連中もあれば、そういう状態の中で心地よ
  く感じている連中もあるし、また、そういうことを知って、でき
  ればそれから抜け出したいと思っている者もある。僕はい
  つも抜け出したいと思ったのだった。
  若い頃、僕は自分は清浄潔白だという考えを抱いて暮ら
  していた。つまり、全然、考えなどというものを抱いていな
  かったわけだ。僕は煩悶趣味はないほうだし、世間への
  第一歩も先ず順調に踏み出した。
  ある日、僕は反省し始めた。親爺は次席検事をやってい
  たし、生まれつき気のいい人間だったんでね。お袋は素
  直な控え目な女で、親爺のほうは愛情をもって僕のこと
  を考えてくれたいたし、僕を理解しようと努めていたとさ
  え思う。・・・ちょうど僕が17になった時だったが、親爺が
  僕に自分の論告を聞きに来るように言った。
  この日のことについて、僕の心にはたった一つのイメー
  ジが残っただけだ。それは罪のイメージだった。僕はそ
  の男が実際に有罪だったと信じているし、それがどんな
  罪だったかは大して問題じゃない。その小柄な30男は、
  自分のしたことと、これから自分に対してされようとして
  いることに、すっかり心から脅えている様子で、暫くする
  と僕の目はただもうその男にだけ引きつけられてしまっ
  た。・・・要するに、この男は生きていたのだ。しかし僕の
  ほうは、その時突然それに気が付いたわけだった。それ
  までは、ただ容疑者という便利な概念を通してしか、彼
  のことを考えていなかったからね。・・・皆がこの生きてい
  る男を殺そうとしていることを感じると、大波のような凄
  まじい本能が、僕を一種の頑強な盲目さで、その男の
  傍らに押しやった。
  赤い法服ですっかり変わって、好人物でも愛想のいい
  人間でもなくなった親爺は、大仰な言葉を口にうようよ
  させていて、そいつがひっきりなしに、まるで蛇のように
  その口から飛び出して来た。そうして、親爺が社会の
  名においてこの男の死を要求しているということだった。
  僕のほうは、その不幸な男に対して、親爺などには全然
  感じたこともなかったような、それこそ目の眩むような
  身近さを感じた。・・・」

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