セネカ#12020/06/15 07:45

   from 『セネカ 現代人への手紙』 中野孝次(Y.2004)

>セネカの哲学と私の癌体験

 2004年2月7日、「ルキリウスへの手紙」の決定稿400枚余を
 書き終えた。
 ところが、その頃から、なんとなく心身の不調を感ずるよう
 になった。そこで、友人がやっている近くの病院に出かけ、
 内視鏡の検査を頼んだ。友人の医者は半年ほど前から、
 息子が勤める大病院に入院中であった。
 友人の病院は息子と、その奥さんと妹の医者が、病院勤務
 の合間をみてほそぼそと運営を続けていた。私を内視鏡で
 見たのは奥さんの消化器専門医であった。彼女は直ちに
 癌を見抜いたようだった。黙って生検用のサンプルを取っ
 た。5日後の2月17日、彼女の夫、すなわち友人の息子が
 電話で、その結果を「食道癌です」と告げた。

 私は一瞬打ちのめされたようなショックを受けたが、その知
 らせを比較的平静に聞き、応答することができたのは、まっ
 たくセネカのおかげであった。

  「運命が何をもたらすか、はかりしれない。人間に起こる
   ことは君の身にも起こると、常に覚悟しておけ。それが、
   何であれいざそのものが来た時に狼狽せず落ち着い
   て対処できる唯一の道だ。
   我が身といえども、体は君の権能下にはなく、自然に
   属する。君はただその管理を委ねられているだけで、
   養生が良ければ自然は満足しているが、悪ければ反
   逆して警告を発する。その時は黙ってその声を聴き入
   れよ」

 私は「ついにその時が来たな」、来た以上はそれは来たに
 違いない、受け入れよう、と咄嗟に覚悟を決めた。日頃常
 に運命のものについてのセネカの教えが私の中に深く入
 り込んでいたればこそであった。人を支えるのは心・精神
 といったものの力である。

>そのあと私が最初にした決心は、食道癌は進行が早い
 というから、オレは今年の内に死ぬだろう。ならば、それ
 までの日々も今まで通り、その日が人生最後の時である
 かのように一日一日を生き、家で晴れやかに死を迎えよ
 うというものであった。私はものの本を読んで、現代医学
 の癌対策が如何に自然に反する過酷な療法を人体に
 課するかを知っていた。あんな目に遭うくらいなら、何も
 しないで死を迎えたほうがいい、とかねてより思っ
 ていたからだ。そして事実そのように平然と振る舞って
 いた。

>癌はしかし私のそんな思惑にかかわりなく、恐るべき速
 度で私の体を破壊していった。ようやく私は、このままで
 は早晩癌の苦痛が始まるだろう。その時一番まいるの
 は看病する老婆だと気がついた。このまま家にいては、
 夫婦共倒れになるだけだ、と分かった。私が入院する決
 心を固めたのはその時だった。嫌でもなんでも、今は入
 院するしかなかった。
 
 3月18日、私は友人の息子が勤める大病院に入院した。
 現代医学の標準的な化学・科学療法は、想像していた
 こととはいえ、現実にこれを我が身において体験すれば、
 実に想像を絶する荒療治であった。
 抗癌剤と称する化学薬品の点滴注入といい、放射線の
 照射といい、人体に害があることを承知の上で、癌とい
 う敵を撲滅するために敢えて行うのである。

 私の体にとって、これはトドメの一発のように作用した。
 身体は骨と皮ばかりに痩せ衰え、顔容枯痩、私の生命
 力は生涯の最低まで落下した。私は十歩歩くにも困難
 を覚えるほどになった。

 その苦しく辛い日々、私を励まし続けたのは、セネカが
 手紙の中で語っている、旧友バッススが病と老年に対し
 闘っている姿だった。
 バッススの船は既に修復不能であり、間もなく沈む運命
 にあった。にもかかわらず彼は絶望もせず、動揺もせず、
 元気だった時分と同じ様に、彼の精神は身体の上にあっ
 て活発に動き続けていた。それに比べたら、と私は治療
 の苦しさの中で思った。・・・人を支えるのは精神とか、
 心、気力、魂などと呼ばれる目に見えないものの力だ。
 身体は人間の権能下になく、自分の自由にならないが、
 この力だけは人が使用しようと思えば、いつでも自由に
 思うままに使用できる。
 セネカは呼吸停止を伴う猛烈な病の発作の中で、そのこと
 を自ら見事に実践してみせた。

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