セネカ#32020/06/17 16:05

>手紙24:死の軽視

 ・死はセネカの思考の中心にあるもので、「死はすぐ前に在
  り」の思いがあって、殆ど現実となっていたからではないか。
  62年に強引に引退し、ネロの宮廷を去ったけれども、ネロ
  の人柄を熟知していた。
  何よりも彼自身が常に新たに覚悟し直す必要のある課題
  だったのだろう。哲学の問題を考えているというのではなく、
  彼自身の問題を考えることで、だからこそ、どれもが実に
  切実で、我々をも引き込んでしまうのだと思う。

 ・セネカが死を考える時、最も好んで思い浮かべたのは、死
  を目前にして少しも怖れず、動揺せず、見事に振る舞った
  人々であった。
  それは間近な死刑を前に弟子たちといつものように哲学
  を語り続けたソクラテスであり、死を覚悟した最後の晩に
  プラトンを読み続け、時が来て運命の神に安らかに死な
  せよと祈って我が身に剣を突き刺したカトーであった。

 カトーがプラトンと剣との二つの補助手段を最後の場合の
 ために用意しておいたのは、一つは死を欲するために、一
 つは死ぬことができるためであった。こうして、破滅して最後
 の時に人が為し得る限り最も見事に調えた後で、「運命の神
 よ、あなたは私のすべての試みを邪魔したが、そのことであ
 なたは何一つ成し遂げていない。これまで私は自分のため
 にではなく、祖国の自由のために戦って来た。私が頑強に
 戦ったのも、自分が自由に生きるためではなく、自由なる
 人々のもとで生きようと願ってのことだった。だが、人類の
 ことはすべては見込みがなくなった。今は、カトーをして安ら
 かにさせ給え」

 ・それから彼は致命的な傷を我が身に与えた。医師たちが
  傷を縫い合わせた。血は減り、体力は衰えていたけれども、
  気力は変わらず、両手を傷の中に突っ込み、彼の高貴な
  魂は恐るべき意志力で、医師団の救済行為をも跳ね除け、
  傷を押し広げて死んだカトーに、セネカは昔の偉大な魂の
  姿を見、死をも克服した見事な場合と感嘆したのだ。
  それが、平和な日常生活においても、人のとるべき模範で
  あった。人は意志の力でそのくらい死を軽んじ、死に支配
  されず、自分の意志を貫くことができる。そうでなければ
  ならぬ、とセネカは言うのだ。

   ※ 死の支配を、避け難いものに対する無力な諦念では
      なく、生の終わりを、生の実現と肯定する

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