ハツォールC地区1997/01/13 21:43

C地区(石柱神殿)

  頭部欠損人間座像(石造頭部が鋭利な道具で一撃のもとに頸部で
           打ち落とされていた)
           上衣の襟元は丸く、その部分から三日月形の
           飾りが弧を上にして胸に下がっている;月神
           紋章)40㎝H.
           Y.の見解は神像
  鉢形土器    (座像の傍らに伏せられていた)

  ――>  埋め土の中に放り込まれたもので、本来、そこに安置さ
      れたものではない

  一列に並んだ十基の石柱群と(供物台としての)玄武岩板石:
      神殿の石柱は、死亡した王あるいは祭司を記念する碑石
      ――> 次のシーズンに、神殿に隣接する土塁斜面の低
          部で、未完成品の石柱17基を発見した。
      聖書に謂う「祭儀上の石柱」

      浮彫の施された中央柱(二本の腕、三日月とその中央に
           位置する円盤、二つの小さな房飾り状のもの)   

  6225室:
      陶工の仕事場(神殿関連の倉庫と土器作業場)
      土器小面
      ハツォール・ピトス(大型の貯蔵用甕形土器)
      青銅地銀貼り祭儀用幟(蛇女神の表象)
      ――>石柱神殿との関連?(三日月のシンボル)
         幟の女性は、この神殿の女神、つまり月神の配偶者
         であるのか?

  1A層:この地区最後のカナアン人居住層
      土塁の麓に建てられた神殿は、外敵の手によるばかりでは
      なく、自然の風雨によっても繰り返し破壊され、これらの
      品々は見捨てられ、崩れた土砂の中に埋没してしまったと
      いうことは可能である。
      そうであるにしても、上層で出土した大部分のものは古い
      相に属し、1A層の人々が神殿を再建した時、これらを二次
      的に再利用した事は明白である。
      (聖所の伝統は一時的なものではなく、同じ場所に代々建
      て続けられる、ということ。1A層神殿は1B層神殿の復元)

ハツォール A地区1997/01/12 07:30

『ハツォール』(山本書店)


A地区:

XⅢ層(1A、前13世紀)で、ソロモンの城門(X層)の礎石下にお
いて、H地区のオートスタット神殿で出土したものと同一の仕上
げの美しいオートスタットが出土した。これは扉の抱き柱の一部
か建造物の入口のようであった。神殿は細長い長方形を呈し、
内法で東西16.2m、南北11.6mであった。入口の反対側にレンガ
と漆喰でしつらえられた台(南北5m、東西1.5m)が置かれ、多量
の奉納物が発見された。
この神殿は、MBA.Ⅱ(前18-16世紀)に創建されて、オートスタッ
トを用いた入口部分が後代になって神殿に加えられた。破壊され
た神殿の全域は壁から崩れ落ちたレンガの堆積で2mも覆われて
いた。この堆積の中から出土した最新の土器片はLBA.Ⅰ(XⅤ
層、前16-15世紀)に属していた。XⅣ層(1B層、前14世紀)、
XⅢ層(1A層、前13世紀)の遺物は出土していない。従って、
オートスタットは少なくともLBA.Ⅰに作られていたことになる。
   ※ H地区、1B・1A神殿オートスタット

この神殿は、最終的な破壊の後、再建されなかった。しかし、こ
の場所はおよび周辺の神聖性はXⅣ-XⅢ層(前14-13世紀)を
通じて保持されていた。
XⅣ層――頭部の丸い背の高い玄武岩角柱が頭を下にして立
       てられていた(C地区の石柱を逆さに立てた)
XⅢ層――小さな石碑と鉢(奉納物用)

神殿が二度と再建されなかったのであるとするならば、その穢れ
原因は何であろうか?

※ ウーリー「(アララク同時代神殿)ヤリム・リムの神殿にとり
        ついた穢れはその再使用を禁じた。神殿の場所は
        見捨てられ、廃墟は第Ⅳ、第Ⅴ層のゴミ捨て用の
        ピットで穴だらけにされてしまった」

この神殿は、また、近くに発見された王宮の一部であって、王宮
もまたはなはだしく破壊されかつ荒らされていた。この王宮は、
MBA.に建立されたと推測されるが、その後、青銅器時代の最上
層の廃墟址(前14-13世紀)の中で、H地区で触れた牝獅子の
オートスタットの前半分に遭遇した。これにより、上の町と下の町
のLBA.層を結び付け、ハツォールの王たちの宮殿がテル上に存
在していたことを立証してくれた。

地価貯水槽

宮殿と神殿の中間に発見された巨大施設。全長30mで、二つの
部分から成っている。一つは岩をくりぬいた下り傾斜のトンネルで
最深部がクローバ形の水槽(or 洞窟)で、他はトンネルに繋がる
通廊である。

XⅥ層(3層、前17-16世紀)
XⅦ層(4層、前18-17世紀、マリ文書) ヒクソス・スカラベ
小粘土板破片(不動産に関する刻文と、マリ時代のシュメール・
アッカド語辞書の一部)出土層とその場所は不明

『古代オリエント文明』(P.アミエ)1997/01/10 15:58

from Perre Amiet, Les civilisationsantiques du Proche-Orient,
"Que sais-je?" No.185 (1977) 
    (近東の古代文明)

本書は、メソポタミア文明開花期(シュメールの都市形成期)に
重点を置いている。

アミエは、A.パロのオリエント考古学、J.ヴァンディエのエジプト
考古学、G.コントノーのアッシリア学の講義を受けた。

1950-54年、テル・エル・ファラーの発掘調査(R・ド・ヴォー)に参加

エラム学者

>シリアのアムル諸都市:

マリ神殿内陣壁画>

マリ王は、シリア特有の高い白冠と、花綱で飾られた絢爛たる衣装
を纏い、軍神イシュタール(女神が足を乗せている象徴動物が獅子
である)と推定される女神の紋章に手を触れている。
「手の儀式」と呼ばれる典礼の場面(新年などの行列行進)。

壁画制作時期は、ハンムラビによる第1回マリ占領後に、ジムリリ
ムの命令で制作された。発掘者アンドレ・パロは「王権神授の場
面」としている。

壁画で飾られた大中庭>

球状の壺を持つ脇役の女神(彫像)の壺からは水が迸り出るよう
に工夫されている。衣装上に刻まれた波状の線や魚は女神自身
が女神の具現している川の流水と一体をなしていることを示す。

マリ総督の彫像 in バビロン>

総督は総状の縁飾りのついた贅沢な衣装を纏い、メソポタミア
南部の住人たちの質素さとはまったく異なる趣向を見せている。

『概説 聖書考古学』1997/01/08 09:54

G.E.ライト 『概説 聖書考古学』

A.マザールは、パレスチナ考古学における聖書への関心に対して、
W.F.オルブライトや G.E.ライトによる考古学と聖書をある特定の見
方から結びつける伝統的な聖書考古学のあり方に疑問を呈しいま
す。
それは、考古資料を神学的な概念で解釈してしまうと、単純で原理
主義的な結論を導いてしまうと警告します。これが、例えば「カナン
征服」というようなテーマに現れていることになります。
一方、現代のパレスチナ考古学では、近代考古学の多様な手法
を利用しながら、伝統的な歴史的見解と結び付け、その姿を変え
つつあり、できるだけ客観的な資料を得ようとする傾向を指摘しま
す。(『聖書の世界の考古学』)

ライトは、「ハツォルは、ヒクソスの馬と戦車隊のための駐屯地で
あったろう」(p.67)、と記しています。

ハツォルが有名なのは、聖書に、ヨシュアが焼き払った唯一の町で
ある、と記されていることによります。

  「ヨシュアが焼き払ったのはハツォルだけで、その他の丘の上
   に建てられた町々をイスラエルは焼き払わなかった。」(ヨシュ
  ア記11.13)

ハツォルの発掘者、ヤディンによれば、ハツオルは丘の上だけでは
なく、下の町からも同時代に属する焼土層が発見されています。さ
らに、下の町では、この焼土層をもって町自体が終焉を迎えていま
す。丘の上の町のほうは、暫時の停滞の後、新たなる文化層が積み
重なっていますので、明らかに対比を成しています。ちなみに丘の
上には、神殿や宮殿が建てられ、いわば庶民というか平民クラスが
下の町で暮らしていたと考えられています。

ライトに戻って、ここで述べられているのは、ハツォルの「下の町」
の由来です。この町は、中期青銅器時代中期のある時期(紀元前
1750-1650年)に創設された、と発掘者は同定しています。この時
代、エジプトは国内が動揺していた第2中間期と呼ばれていた時期
で、ヒクソスが台頭して来ました時でもありました。また、メソポタミア
方面からはハンムラピがシリアに侵攻して来た時代でもありました。
そのようないわば動乱の時に、下の町は出現したのです。

ヤディンのハツォル発掘の目的の一つに、ライトが唱えたような説、
すなわち総面積200エーカーに及ぶ囲い地を堅固に構築された巨
大な陣営と考えていた、この囲い地の性格を明らかにすることがあ
りました。それは、そのような広大な町が、当時のカナンに存在しえ
たか、ということでした。他のカナアンの諸都市に比べて、10~15倍
も大きな町でしたから。

そこで、発掘で答えを見つけることになります。C地区と名付けら
れた地区に細く長い試掘坑(70×5m)を設けて掘り進めると、表
土の1m下で丸石を敷き詰めた床面、大量の土器片を伴った遺構
(第1a層)が出土しています。町であった徴候がありました。そ
して、最終的に、第4層まで現れてヴァージン・ソイルに突き当たっ
ています。これで、答えを見つけたことになるのかというと、まだ
でした。それは、たまたま、ここ(囲い地の南西隅)だけに小規模
の居住域が存在していたのだ、という反論があるからです。

  「頑固者たちを得心させる方法・・・『囲い地の真中に、目に
   とまる石や建造物とは無関係な、あてずっぽうの区画を選び、
   5×5mを発掘しようではないか。・・・」(ヤディン『ハツォール』)

こうして、そこからも同様の結果を得たことで、囲い地全体の性格が
住居址であると決められました。ライトの著書は、この発掘の成果を
見る前の一般論で書かれていることも記しておきます。

ヤディンの『ハツォール』は、W.F.オルブライトに献呈されています。
1950年代の後半に行われた発掘は、それなりの厳密性を有してい
ましたが、現在では、やはりオルブライト流と評価されてしまいます。