阪神大震災メモ #112014/04/11 17:59

「監察医は語る」(福永龍繁、『サンデー毎日 ’95.2.26』)



「(僕の視た範囲では)圧迫による遺体は、検案したうちの七割強
でしょうか。・・・さらに残りの一割から二割が頭の骨折とか、頚椎
が折れているだろうと推測されるもので、あとは焼けてしまった骨
です。(中略)
今回の場合はほとんどの犠牲者が就寝中で、寝間着でした。あま
り思い出したくないが、親子の遺体もたくさん運び込まれました。
子供が左に寝ていれば親は左を向き、川の字のように真ん中に子
供がいれば、両親はそれぞれ子供のほうへ向いていました。・・・
子供の遺体はきれいなのに、親は損傷のひどいのがかなりあった。
親が”その瞬間”に子供をかばったのでしょうね」

「検案した遺体の中に、救助が早ければ助かったといえるものが
あったかといえば、僕が見た限りでは、ありませんでした。家の倒
壊が非常に多かった地域のせいか、即死か非常に短時間で亡く
なっていた方が多かった。(中略)
一部の報道にあったように「生き埋めになったまま焼かれた」とい
う「むごい死」を予想させる遺体はなかったはずです。確かに、焼
かれて骨になった遺体はありましたが、そうした方も最初の一撃
で心臓が止まっており、そのあと焼かれたのではないかと推測さ
れるものが多かったですね。というのは、火事が近づいた時に生
きていれば、かなりの量の不完全燃焼ガスを吸う。その場合、臓
器は赤くなります。しかし、臓器が残っていた焼死体とみられる遺
体のほとんどがそうなっていなかった。」

阪神大震災メモ #102014/04/11 17:57

「歴史はくり返す」(吉村昭、『文藝春秋 '95.3』)


関東大震災の火災は、東京市の10,485,474坪(43.5%)が焼き
払われ、全戸数483,000戸中300,924戸が焼失、死者・行方不
明者(圧死等含む)は68,660名に及んだ。吉村は、当時の一
流の学者たちがそれぞれの専門分野で震災について調査研
究を行った『震災豫調査報告』から、火災(理学博士中村清二
執筆)について以下ように記す。

「発火原因について・・・薬品落下によるものが四十四個所も
あると指摘している。学校、試験所、研究所、製造所、工場、
医院、薬局等にあった薬品類が、棚等落下して発火した。こ
とに学校からの出火が最も多く(中略)
昭和五十三年六月十二日、マグニチュード7.4の宮城県沖地
震が起った。・・・この短文を書くにあたって、東北大学に問い
合わせてみると・・・(東北大学理学部建物からの)出火原因
は薬品の落下で・・・地震による神戸市での発火原因は、いっ
たいなんであったのだろうか。生活形態が多様化し、薬品の
落下以外に思わぬものがその原因であったのかも知れず、
それを十分に突き止め、今後の教訓にしなければならない。」

「延焼をうながした最大の原因は、避難者の携行する荷物で
あったと指摘している。人々は、家財を荷馬車や大八車に載
せたり背に負うたりして逃げまどい、路上はそれらの人と荷物
によって、充満した。火がそれらの荷物に引火し、人々は荷物
や大八車等に逃げ道をふさがれて焼死、火勢はさらにつのっ
て延焼していったのである。・・・

博士は、荷物と火災について、その対策が江戸時代のそれ
より劣り、江戸時代の教訓が全く生かされていなかった、と嘆
いている。・・・(江戸)幕府は、出火時に大八車を引出す者を
厳罰に処すると警告し、宝暦十年の大火の後にも、「出火之
節 建具竝諸道具等大八車ニテ積候儀有之候ニ付 往還通
路之妨ニ相成候。前々モ相觸候處不届至極ニ付 自今見付
次第召捕」として、当人はもとより家主も処罰すると通告して
いる」


「東京大空襲で私の家も焼けたが、焼夷弾が家とその周囲
に落下した時、私はあらかじめ用意しておいた食料品、衣類
を入れたリュックサックを背負って外に出ようとした。その時、
家の奥から出て来た父が、「荷物などかつぐな。手ぶらで逃
げろ」と怒声を浴びせた。(中略)
現在、地震の折にそなえて、非常持出しの品を入れたリュッ
クサックを用意しておくのが不可欠とされている。・・・(中村
博士は)関東大震災で着のみ着のままで逃げた人たちは、
少なくとも二十四時間過ぎた頃には食物、水を口にし、餓死
した者は一人もいない。まず、火災で命を奪われぬようにす
るため、たとえ少量の物でも持ち出してはならぬ、と警告し
ている。」

阪神大震災 #8-22014/04/09 19:12


阪神大震災から一年経ち、千葉県地域防災計画では
液状化危険地域の警戒が呼びかけられていた。

3.11において見事に証明され、#8でも述べたように、
ものの見事に忘れていたことであった。



(上図は震度予想;下図が液状化予測)

阪神大震災メモ #92014/04/09 17:55

「危機に際してこそ商人魂を発揮せよ」

(日本リテイリングセンター・チーフコンサルタント 
渥美俊一;『商業界 95/4』)


「戦後最大の被害を出した阪神大震災ほど、商店経営者の職業
に対する普段の姿勢が二極分化した事件はなかった。どこの店
でも普段は、企業としての経営理念や経営者の経営哲学を口に
している。これが口先だけのお題目であったか、それとも心の底
から本当に商業の社会的任務を自覚し・・・」

「地震が発生したのは、1月17日午前5時46分のことだった。し
ばらくは頭の中が真っ白になったとしてもやむを得まい。しかし、
・・・7時過ぎのテレビニュースを聞いた途端に、『自分は今何を
直ちになすべきか』という問い掛けを、自分自身に対して厳しく
できたであろうか。・・・つまり、『何をなすべきか』という行動方
針を考える時に、まず念頭に浮かんだのが、使命感だったのか、
逆に損得だったのかということなのだ。(中略)

私は被災した多くの経営者と話をしたが、17日当日の丸1日の
行動を時刻で表現できた経営者は、間違いなく前者に属する人々
であった。そして、『こうすればよかったと思うことは何ですか』
という私の質問に対して、客観的に『よくやった』といえる経営
者ほど、『もっとこうすればよかった』という反省を続々と訴えて
きたものだ。」

「欧米のチェーンストア産業では、こういう緊急事態に的確に対
処できるかどうかの相違は、企業文化の違いにあると説明して
いる。」


3.11発災直後に私がかかわった避難所において、北欧大型家
具店と以下のようなやりとりがあった。

「お客様を誘導していきますのでお願いします?」
「何名ぐらいですか?・・・ 人数によっては、毛布が不足する恐
れが・・・」
「それでは、当店備蓄の毛布をお貸ししますので持参致します。
他にお困りの品はございますか」
「恐縮ですが、離乳食と乳幼児用の紙おむつがあれば助かり
ます」
「かしこまりました」

市では備蓄していない日用品を外国籍の会社から提供された
という、お粗末な一席でした。

阪神大震災メモ #82014/04/02 20:43


「揺れ、液状化から建物をどう守るか」

(『日経ビジネス 1995年2月20日号』)



「石油タンクでも既設物の液状化対策は頭の痛い問題だ。幸い、
油の大規模流出や火災発生こそなかったが、阪神大震災でも、
50基以上が傾くなどの被害が出た。」

「既設(78年以前)については、昨年(94年)7月の政令で、今年
1月から対策が義務づけられたばかりだ。1年間で調査し、20年
程度で改善するという。」

「横浜から千葉に広がる京浜、京葉の臨海工業地帯。この地域
は液状化しやすい地域の1つだが、コンビナートにひしめくタンク
の8割以上は旧基準のままだ。1000キロリットル以上の大型タン
クだけでも、無防備タンクは1000基を上回る。」

「大成建設が、東燃・川崎製油所に施したのは、タンクの周囲に
止水壁(地下16m)を埋め、地下水の流入を制限したうえで、揚
水ポンプを使って水をくみ上げ、内側の地下水位を下げるという
工法だ。当然、地盤沈下が起きるため、タンクが水平に沈むよう
な水抜きが必要となる。工事費用は巨額だ。東燃の場合、40億
円をつぎ込んだ。しかも、ポンプの運転や維持管理などのランニ
ングコストがこれに加わる。・・・」

「(20年という猶予期限を設けても)地震は待ってくれない。流出
した石油類に引火した場合、連鎖的にコンビナート全体が火に
包まれる恐れもある。阪神大震災では、消防は同時多発火災に
無力だった。」


ここに述べられている液状化危険地域に住んでいる私自身、「液
状化」をまったく忘れていた。これは私だけではない。3.11発災後、
避難所に集まってきた住民を、別の避難所に避難誘導する羽目
に陥ったのだから、行政ならびに住民の念頭になかったことは事
実である。さらに、避難所に指定されていた建物が実際に避難所
として機能するのかを再検討要請した時にも、この泥のなかに孤
島と化した中学校はノー・チェックであった。また、私が関与した
避難所は、液状化によりライフラインが全滅した住民が押し寄せ
て来たために事後承諾で開設されたのであった。そこにある危機
の存在感は、かくの如く薄いのであろう。

阪神大震災メモ #72014/04/01 20:36


「繋ぐ-阪神大震災におけるNTTマンの対応」

(中野不二男 『PRESIDENT』1995.7&9)



貝淵関西支社長が15時頃、支社ビル13階の対策本部に15時頃
到着した。

「『支店の人間に報告しろというのは酷だから、今支社に出て来
ている人たちを中心にして、調査班を編成しなさい!150人だ。
現場の人を動かしちゃいかん。こっちから人を送り込むんだ。力
仕事でもなんでも、こっちから送った人たちが動くようにしなさい』」

18日朝、JR大阪環状線が運行開始したので、阪急電車へ乗り
継ぎ貝淵は西宮の被災地を日が暮れるまで歩き回った。上空か
らの映像と地べたの様子との違いに、被害状況の把握の難しさ
を確認した。

「回線のケーブルが切れるなど実際の被害を受けていたのは、
二十日の時点では『三万回線以上』となっていた。そして復旧の
見通しは、『一カ月前後』だった。実際の被害は、もちろんこれよ
りもはるかに多く、最終的には『十九万三〇〇〇回線』にもなる。
・・・」

20日夜10時のミーティングで一通りの報告が終わったところで、
貝淵は言った。

「『今月中に復旧させる』
ごくふつうの言葉づかいである。
『サービス回復だ。とにかく線をつなぎ、お客さんにつかってもら
う。電話線は、邪魔にさえならなければ、どこに張りめぐらそうと、
どう引っ張りまわそうとかまわない。とにかくつなぐことだ』
・・・三万回線の被害は確認されているが、それ以上はわからな
い。」

1月25日、神戸西支店、2679回線復旧完了。

1月26日、神戸西支店、3335回線復旧完了。

「(神戸西)支店長の石田は、その数字に満足はしていなかった。
(中略)現場の連中は、やっぱり工法を気にしとるな。翌早朝、石
田は修復作業を担当する協力会社の工事長たちに集まってもらっ
た。
『なんとしても目標を達成するんや。細かいことは気にせんでヨシ!
いちいちハンダもらんでもいい。工法無視や、検査もなしや。責任
はワシがとる!」

サービス回復とは、線をよじってつなぐだけで、一秒でも早くつなぐ
ことを目的としている。教科書的には”手抜き”であり、丁寧、確実
を当然のこととして生きてきた人々にとっては衝撃であったかもし
れない。

1月31日夜10時の定例ミーティング。

「『本日までに復旧を完了した回線数は、以上です。残念ながら、
まだすべての加入回線の回復は完了しておりませんが、少なくと
も一〇万回線を上回っております』
調査担当者による淡々とした報告が終わると、ひろい講堂内にぱ
らぱらと拍手が響いた。その拍手が終わらない内に、貝淵が立ち
上がった。
『みなさん、ほんとうにご苦労様でした。よくやってくれた。今度の
土曜日と日曜日は、家に帰ってゆっくりと休んでくれ。ほんとうに、
よく頑張ってくれた』
その言葉が、災害対策本部の解散であり、災害復旧本部の始ま
りだった。」

「(貝淵は)仮眠をとるために近くの社宅へ行こうと、通用門を出
た。そのとき、三〇歳になるかならないかくらいの若い男性職員
がヘルメットでボサボサになった頭をかきながら入ってきた。
『いま終わったのか?』
貝淵が声をかけると、若い職員は支社長の姿に気づいた。
『はい、応援に行ってきました』
『ご苦労さん、たいへんだったろう』
『いやぁ、貴重な経験です。私も人生観が、かわりました』
『君、まだ若いのにそんなことを』」

阪神大震災メモ #62014/03/31 20:33


震災を体験した新米ママよりの手紙

(『こうべからのメッセージ』)


「出産後、里帰り先の実家から自宅に戻り、1週間ほどしてまだ
試行錯誤している時に地震がやってきた。その日も明け方4時
までずっと夜泣きされ、やっと眠れたと思った矢先の出来事だっ
た。しかし、あの大地震の直撃にもかかわらず、これがこれから
先の私の育児観や人生観を大きく変えてくれたような気がする。
あの地震がなければ、今ごろ慣れない育児の毎日にウンザリし
ているかもしれない。今では、大泣きされても、とてもかわいらし
く思える。少々悩みごとがあったり、心配させられたりしても、そ
れが成長の一過程だと思える。家財が崩れたりして、失ったもの
もあるけれど、得たものも大きい。ちなみに、夫とのきずなもいっ
そう強まったと思う。」

阪神大震災メモ #52014/03/31 20:32


「英会話教師、海部と会う」 in 「2人の米国人ボランティアが見
た日本と日本人の現実」

(『日経ビジネス 1995年2月6日号)



「『日本は特別法を持ち、非常時には規則や慣行に縛られては
ならないと銘記すべきだ』。
1人の米国人がそう訴え、元首相の海部俊樹らを説いて回って
いる。」

ダニー・ジョンソンはロサンゼルス在住の弟アーサーに電話をし、
ロス地震の経験を持つ8人の医師、13人の看護婦と1人のX線技
士一行が、1月22日夜に神戸入りした。ダニーが彼らとともに翌
朝7時に神戸市役所へ行き、夜10時に宿舎にあてがわれた巡視
船に戻った時、全員が怒りに紅潮していた。


「市役所で全員が数時間待たされた揚げ句、やっと活動を始め
たとたん、今度は救護活動をする日本人医師から、『帰ってくれ』
と言われたのだ。」

「助けること以外に何らの意図を持たない米国からの無償奉仕
者を、無数の患者がそこにいる前で、行政と日本人医師たちが
何故か追い返そうとさえした。」


「ボランティアはもっと活躍できた」

(佐々淳行、『PRESIDENT』1995.3)


「アメリケアズ(慈善団体)は三人の医師を連れてきていた。そ
れ以前に神戸市内には、はるばる海を越えて八人のアメリカ
人医師が入り、診療しようとしていたのだが、実際の仕事は見
習い看護婦がやるような医療器具を洗う仕事しかさせてもらえ
ない。医療行為を行うと、医師法違反に問われるというのだ。
・・・薬を使うと薬事法違反になるので、・・・」

「24日、私の家内は通訳として彼らと行動を共にした。しかし神
戸市役所は『医者も薬も足りている』と言う。あるキリスト教系の
病院に行ってみたら、足りているどころの騒ぎではない。医療現
場は大混乱で、「子供用の薬が足りない」と言って看護婦はなき
そうになっていた。」

「アメリケアズがアメリカから輸送した医薬品は、こうした災害時
に必要なニーズをぴったり満たしていたため、病院では大歓迎
されたのである。」

「現場では救援が求められているにもかかわらず、国内からも
海外からも差し伸べられる援助の手は、行政によって撥ね除け
られている。海外からの援助を次々と断った日本政府の不可解
な態度は、外交的なマイナスともなりかねない。・・・神戸市の現
場で世界中から来るボランティアの申し出を「受ける受けない」の
判断を下していたのは、市の外郭団体である国際交流協力セン
ターの人であり、彼は見るだに気の毒なほど疲労困憊していた。
彼の判断は来た道と逆のルートを遡り、外国に伝えられる際には
外務省の判断として伝えられるのである。」

阪神大震災メモ #42014/03/31 20:30


「予知を目指す地震考古学」(寒川旭、読売新聞夕刊
 1995年3月24日)



「(地質調査所の研究者と共同で淡路島の地質図を作成し
た過程で)野島断層の位置と、活動の仕方までは把握でき
た。しかし、活動の時期を予測することには力及ばなかった。
それぞれの活断層が、将来、いつ頃活動し、どのような被害
が生じるかを考える。これが次の段階での研究目標である。
このためには、各断層ごとに活動の歴史を把握することが必
要になる。」

それには、(1)トレンチ調査で地層の食い違いを比較する、
(2)古文書分析、(3)地震考古学の方法が必要になる。

「淡路島から神戸、さらに、大阪平野北縁を経て京都盆地に
至る一連の活断層があり、現在注目されている。兵庫県南部
地震はこの活断層の西端で発生した。一方、(1596年の)(慶
長)伏見地震は、この地域の東ー中部の被害が顕著で、それ
が西部にも及んでいる。今回の地震を理解するためには、四
百年前に発生した伏見地震について詳しく知ることが必要で
ある。その理由は、この二つの地震が同じ活断層から発生し
た可能性があるからである。」

寒川さんという方は、通産省工業技術院地質調査所近畿・中部
地域地質センター主任研究官なる肩書でこれを書いておられま
す。

そこで、補助線を引いてみます。地震発生の約半年前に書かれ
ています。

「不可能な地震予知より防災研究を」(R.ゲラー、『現代 ’94.9』)

「竹内均東大名誉教授のように地震予知自体を疑問視する見方
は、十数年前からありました。・・・そもそも、日本人はマスコミを含
めて、地震学者の最大の義務は地震の予知だといまだに思っている。・・・しかし最近の研究によれば、地震予知は不可能であると
の結論が出ている。それは、無数に発生しているごく小さな地震
のうちから、ごく一部が連鎖反応として大きな地震に広がる。つま
り、大きい地震も小さい地震も発端は一緒だということ。前もって
大地震を予知することなどできるわけがないのです。」


「地震予知計画は、大きい地震の前には特定の前兆現象がある
ということが前提になっている。・・・残念ながら三十年たったいま、
まったく成果が上がっていない。」

「(表に出てくる意見がこれと異なるものが多いのは)予算獲得の
ためには予知研究というのは最も受けのいい理由だからです。
・・・地震学者にとっても地震予知が予算を引き出す「打ち出の小
槌」になってしまったんです。・・・(しかも、)
「予知」研究は「談合」のように行われています。つまり、特定の
「指名研究者」のみが参加できるのであって、誰でも自由に研究
計画を申請することができるわけではありません。」

ゲラーさんは、東大助教授、専攻地震学なるお立場です。地震
予知に関しては、『公認「地震予知」を疑う』(島村英紀著、2004
年)を薦めます。

阪神大震災メモ #32014/03/30 19:13

「被災者の苦しみ助長する日本政府」
(加護野忠男、『日経ビジネス』1995年3月20日号)

震災はまだ終わっていない:

「ところで、東京では阪神大震災はすでに過去の出来事になってしまっ
たようだ。たまに東京へ出ると、彼我の温度差に驚かされる。・・・今回
の地震の収穫の1つは、神戸の人々が日本政府の存在を客観的に捉
えるようになったことだ。・・・日本政府というものは遠く離れた東京にあ
るもので、実際には何の頼りにもならないということを、人々はいやとい
うほど思い知らされた。・・・政府がやっているのは、最低限の責任だけ
は果たしていますよ、というつじつま合わせ。だから、やることなすことタ
イミング遅れで、ピントがずれている。それがまだ続き、被害をさらに大
きくしている。」

罪作りな中小企業復旧支援措置:

「助けられないなら、何もできないと正直に言うのが一番の親切であ
る。助けるというポーズを見せて、頼ってきたら肩透かしをするという
ことほど罪作りなことはない。」

この措置は、5000万円限度で2.5%の超低利融資を行う制度で、かつ
2000万円までは無利子、1000万円までの無担保無保証というもので
ある。数坪規模の商店でも2~3千万円の在庫は当たり前の時代に、
この程度の金額で事業再建はできるのだろうか? ”つなぎ”というこ
とならば、本格的な復興資金はいつ、どのような条件で供給されるの
か?

「将来の展望もないまま、藁をもすがる思いでお金を借りようという人々
には、お金を貸さない方が親切というものだ。」

「東京の政府は、この際何もできないということをはっきりと宣言すべき
だ。それが被災者に対する最大の思いやりである。憤りは飛躍のバネ
になる。・・・被害は日に日に拡大を続けているのだ。」