月と日と2009/12/30 15:55


 時が充ち月は東に上りくる
 夕陽は落ちゆ海に静かに

(上る満月と沈む夕陽が同じ高さに立った時)

ふと気づけば2009/10/01 09:40


 こんばんは二人だけよと告げられて
 子どもが巣立ったさびしい食卓

連日健診2009/07/01 20:52


採血は
昨日右腕、今日左
明日の宣告思い患う

セム語な感覚2008/11/19 07:44

我々は「メッカ」と聞き、読むことが多い。それでも、「マッカ」と
書いているものも目にすることがある。
コンテクストから、同じ地名であることは間違いない。

日本では、なるだけ現地の発音を尊重する慣例であるから、
どちらかに統一されて然るべき、かと漠然と腑に落ちなかった。

ところが、アラビア語をかじるに及んで漸く判然とした。答えは、両方有りということだ。
少し解説すると、論理学風に書き表せば、

 
        話者  :  聞者

       メッカ  : メッカ
       メッカ  : マッカ

       マッカ  : メッカ
       マッカ  : マッカ

ということだ。「メッカ」、「マッカ」と発しても、聞く耳にもどちら
かに聞こえるのである。つまりは、識別出来ないということ。
(あるいは、元々、区別していない?)

こういうのは、まだあって、オノさんとウノさんも同様で、オーノ
さんでも同じになってしまうということだ。

「バベルの塔」仮説2008/11/15 20:36

最近、真直ぐに歩けなくなったような気がする。
だから、女性とは並んで歩くことは避け、進行方向
右斜め前方に空間を確認する日々が続く。

そんな、朦朧とした肉体に天啓が閃いた。
すなわち、バベルの塔以前には言語は only one の
状態で存在したのであるとするならば、多くの言語を
学べば学ぶほど簡単な筈だ。帰納的にそうならなけれ
ばおかしい。

そう考えれば、各言語には共通するところが多い。
どんな言語にも、名詞があって、動詞もある。という
ことは、ほぼおんなじということや。
探せば、もっと、もっと色々出てくるだろう。

こうして、日・仏・独・英・亜な時は、あっという間に
過ぎ去る。年末からは、羅も復活させよう。

日本海2008/02/10 19:45

 千里が浜
 砂立つ波の寄せくるを
 ジーっと見つめる
 車の二人

橋上光景2008/02/02 12:50


入り日乗せ上げ潮ゆるく迫りこゆ
川はどこまで海は何処から

神の乗るとも2008/01/16 09:18

夕空に三日月あわく横たわり
お姿見んとしばしとどまる

干潟にて2008/01/07 22:48


数十羽ペアにて群れる
その中に
外れて一羽土をついばみ

セーラームーン再び2007/11/27 22:16

独語の先生は少し俯き加減で、ハニカミながら、
werden が単なる未来形ではなく、そこにich
の意思が込められている最適の用例として、先日、
仏語の授業風景として紹介した、「天に代わって、
お仕置きよ」を板書しました。

Im Namen des Mondes werde ich dich
bestrafen!

これを句に分解しますと次のようになります。

 Im Namen des Mondes = Au nom de la lune

werde ich dich bestrafen = je veux te punir

文の前半部は同一の発想で綴られています。ところが後
半部になりますと、あの meriter を使うことのエレガ
ントさがよく理解される事になります。