『無名の順礼者』#8-62022/02/06 15:01


>祈りには救いと完成に到達する手段が
 すべて含まれている。だが、祈りには絶え
 ず祈れという条件が伴っている。従って、
 始終唱え、途切れることのない祈りだけが
 大きな効力力を持っている。
 できる限り始終祈ることだ。始めたばかり
 の頃は、たとえ気が散ったとしても、全生
 涯を祈りに捧げよう。絶え間ない祈りは注
 意力を養い、祈りの量の多さは必ず質の
 向上へと導いてくれるものである。

 「喜びは、つまりこれが霊魂を誘い込むの
  であるが、希望が花開いた結果なので
  ある。そして、その希望についての黙想
  が心を満たしてくれる。・・・きっと実現す
  るという希望がある。これが結果として、
  この活動に喜びを見出すことになるの
  である」(シリアの聖イザーク)

 聖なる教父たちは、人間の意志の弱さと
 快楽を求める貪欲さを十分に心得ていた
 ので、祈りと神の助けへの信頼とから成っ
 て、物草のために祈りを疎かにする怠慢
 を打ち破り、自己の完成と神への愛に達
 する非常に易しい方法を教えています。
 霊のそういう聖なる状態についてできる
 だけ多く考えるように、また内的祈りの喜
 びを得ることがどんなに容易であり、どん
 なに素晴らしいことかを記して安心感を
 与えてくれる彼らの書いた書物を読むよ
 うに奨めています。

 心の優しさ、熱心さと精神的光、言葉に
 絶する恍惚状態、喜び、安心、深い安ら
 ぎ、幸福感、そして命への愛はすべて心
 の奥底からの祈りの成果です。
 そういうものについての黙想に没頭す
 ると、弱くて生温かった霊が熱意に燃
 え、強められ、祈りに上達するよう刺激
 され、いわば祈りの実践を試してみる
 ことに誘い込まれるのです。

『無名の順礼者』#8-62022/02/05 14:51


>祈りの力

 祈りは実に活動的で効力に富んでいるの
 で、祈りをしてから自分のしたことを行うよ
 うにすれば、祈りが適切で正しい行動を取
 らせてくれるものである。
 神をお喜ばせする信心深く聖なる生き方を
 するためには、愛ほど大切なものはない。
 先ず愛し、それから何でもしたいと思うこと
 をするがいい(聖アウグスチヌス)。

 何故なら、心が愛に満ちた者は、自分の
 愛している者の気持ちを害するようなこと
 をしようとは思わないからだ(祈りとはほと
 ばしる愛の行為だからこそ、こういうことも
 言える)。
 
 救いを得るには、規則正しく祈ることに優
 るものは多い。そうすれば祈りと聖性とに
 到達し、別人となることができるだろう。

 (イ)心に浮かぶ思いは祈りによって清め
    られるものであるから、祈ってからも
    のを思うがよい。祈りが心を照らし、
    不敬な思いを鎮め退散させる。
    「心を乱す思いを追い散らし、心を
     清めたいなら祈りによって実践す
     ることである」(シナイの聖グレゴリウス)
    「イエスのみ名によって心の思いに挑
     む敵を打ち負かすようにせよ」
     (聖ヨハネ・クリスマス)

 (ロ)先ず祈ってから、望むことを行うように
    するがよい。そうすれば行いは信心深
    く、良い結果をもたらすものとなり、救い
    に役立つことだろう。目的が何であるか
    に拘わらず始終祈ることは必ず報われ
    るのである。祈りには神のお力が備
    わっているからである。

 (ハ)祈るがいい。己の力で情欲に打ち克と
    うとして必死で頑張らぬことだ。祈りが
    人間の内にある情欲を滅ぼしてくれる。
    神は人間が祈りに専念するのを願って
    おられるのを信じることである。そうす
    れば祈りが救ってくれる(聖ヨハネ・カルパトス)

 (ニ)ひたすら祈り、その他のことは気遣わ
    ないようにするがよい。苦労や不運を
    恐れてはならない。祈りがどんな時に
    も守り、力づけてくれるのだから。
    信仰心が足りなかったために溺れか
    けたペトロのことを思い出すがよい。
    牢の中で祈っていたパウロのこと・・・
    イエス・キリストの名によって唱える祈り
    の力と、効力と、普遍性を思い出す
    ことである。

 (ホ)どんなにぞんざいな祈りであろうと絶え
    間なく祈り、何事にも心を乱すことのな
    いように、心楽しく、安らいでいるように、
    祈りが生き方を導き、理解を与えてくれ
    るのだから。
    「祈りは罪に満たされた我々の内から
     生じたものではあっても、たちまちの 
     うちに罪は清められる」
      (聖ヨハネ・クリソストムス)
    「祈ろうと努力することは人間にもできる。
     しかし純粋に祈るという力は恩寵の賜
     である」(隠修士マルコ)

    故に、人間の力で可能なものを神に捧げ
    るがよい。絶えず祈るという捧げものを
    神に差し上げることから始めるのだ。そう
    すれば、神の全能の御力が人間の弱さを
    消し去ってくださるのである。無味乾燥で、
    気の散ったものではあっても絶えず祈る
    ことが習慣となり、第二の天性となるであ
    ろう。
    その時祈りは清らかで、熱意ある、力強
    いものに変えられる。

 (ヘ)己の時間をすっかり祈りに費やすとしたら、
    必然的に罪深い行いや、思いに耽る時間
    は残っていないことになる。

『無名の順礼者』#8-42022/02/04 14:47


>祈りは神に捧げるもの・・・

 神が求めておられるのは言葉ではなく、注意
 深く清らかな心ではないでしょうか?
 マタイ7:21、15:3、1コリント14:9・・・と、口先
 だけでの祈りの無益さを強く非難しています。
 ここで強調されているのは祈りを始終、長い期
 間を通して、休みなく唱えることなのですから、
 たとえ初めのうちは注意力や信仰に欠けてい
 るように見えるとしても、この「機械的な実践」
 がいつの間にか心の奥底からの真の求めと
 なり、心の一部となって、必然的に霊に良い
 感化を与え、養い、神と一致させてくれるの
 です。

 (聖書からの幾つかの引用に対しても)慎重な
 分析で解明すれば、キリストは舌を使っての偽
 善的な礼拝などを非難なさいましたけれども、
 高慢なファリサイ人たちは口だけで神への信仰
 を表し、心には信仰がなかったからです。
 この戒めは生きた信仰を持たない者たちに向け
 られたもので、
 「絶えず祈るのは、あなたたちの義務である。
  無気力になってはならない」
 というお言葉でキリストが厳格に、明確に命令
 された祈りには適用されません。
  cf. 1テモテ2:8、1テサロニケ5:17

『無名の順礼者』#8-32022/02/03 16:46


>イエス・キリストは使徒ペトロに、
 「しかし、私はあなたのために、信仰がなく
  ならないように祈った。だから、あなたは
  立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやり
  なさい」(ルカ22:23)
 と仰いました。また、彼が牢に入れられていた時、
 「教会では彼のために熱心な祈りが神に
  捧げられていた」(使徒12:5)
 
 私たちの隣人のための祈りについては、
 「だから、主に癒やしていただくために、
  罪を告白し合い、互いのために祈りな
  さい」(ヤコブ5:16)

 「私たちのために祈ってください。私たち
  は、明らかな良心を持っていると確信し
  ており、すべてのことにおいて、立派に
  振る舞いたいと思っています」(ヘブライ13:18)

 聖パウロは、互いのために捧げる相互の
 祈りが如何に必要であるかを私たちに教え
 ようとしており、どんなに聖化され、勇気に
 満ちた苦行僧であっても、他人の祈りによる
 霊的救いの必要性を認めている。これほど
 までに聖なる人が、謙虚に、隣人であるヘブ
 ライ人に彼らの祈りを自分の祈りに一致させ
 て欲しいと願っている、こうした姿勢を目にし
 ながら、自分の力と祈りだけに頼ろうとする
 のは何とも分別のないことではありませんか。

 聖パウロの寛大な精神は誰をも差別すること
 なく、平等に、すべての人の祈りを願っている
 のです。神の力は信仰薄き者の内に示され、
 祈ることでその信仰が完全になるということ
 が起こり得ます。

『無名の順礼者』#8-22022/02/02 16:41


>神のみ前にある時は、心はごく自然に容易く
 イメージのない祈りに耐え、身を守ることがで
 きます。知力は、具体的でもなければ、目に
 見える形も持たない観念というものを知覚し、
 それに注意を留めることができるのです。
 霊魂、大気などを意識することが可能です。
 同様に、純粋に抽象的な形で神の不可能な
 存在を意識できるのです。

 人間というのは生来社会的な存在であり、
 他人を通して知的能力を発達させて行くもの
 なので、人間の霊的部分は他人に伝わるも
 のなのです。互いに助け合うことで、人間は
 今まで以上に信心深く、熱意に溢れ、しかも
 容易く事を行えるのです。ここにこそ、キリスト
 信者が互いの祈りを求め合い兄弟たちに
 自分たちのことを思い出してください、と願う
 共通した実践の理由があります。
 このことから、数多くの嘆願や執り成しは、
 この世の権力ある者の場合のように、こうす
 ることで神の御心を和らげようというのでは
 なく、祈りの精神と力は、祈りが捧げられる
 者たちを清め、照らし、神との一致への心構
 えをさせるものであるという理由で行うのです。
 地上に生活する者の相互の祈りが、それほ
 どまで実り多いものだとしたら、既に亡くなっ
 ている者たちへの祈りも、精神とこの世との
 間を取り持つ親密な一致であるために役に
 立つのは明らかです。

『無名の順礼者』#82022/02/01 17:01

>第七の物語

>「勇気をだしなさい!私だ!恐がらなくてもいい」
 と主イエスは仰ってくださいます。迷いが起きるか
 もしれないという理由で内的生活を恐がったり、心
 配したりすることは無駄だということが分かります。
 己の罪を謙虚に認めること、霊的指導者に己の
 霊魂の状態を率直に打ち明けること、それと
 イメージを抜かした祈りこそが、実に多くの人たち
 が恐れ、そのために観想に憧れるのを躊躇する
 原因となっている惑わしに打ち勝つ砦です。

 「修道士の多くの者は、自分たちの心の中の思い
  違いは悪魔が吹き込んだものだということを見
  抜いていない。彼らは外面的な善行に熱心に専
  念しているが、知識と悟りの不足のために内的
  観想を蔑ろにしている」

>イメージ抜きの祈りとは何か?
 また、聖なる教父たちがそれほどまで力を入れて、
 その祈りに人を引き入れようとした理由は何か?

 観想を行っている時にはどんな種類のことだろう
 と空想は避けなければなりません。また光や、
 聖人、天使、キリストについての姿のようなも
 のは決して心に描いたり、受けてはならないの
 です。
 教父たちが力を込めてこれを警告した理由は、
 想像力というのは心に浮かんだ考えを易易と
 擬人化し得るので、観想に未熟なものはこうし
 たイメージに誘き寄せられてしまい、これらを
 恩寵の為せる業と考え、それで迷いに屈服す
 るのです。
 聖書は、悪魔は光の天使の姿をしてやって来
 ることができるという言葉で、この警告を確証
 しています。

『無名の順礼者』#7-42022/01/29 09:43


>絶え間のない祈りの実践は、罪深い行いから人間
 を引き離し、本質的な知識と神との一致へと導いて
 くれる。絶えず祈ることの必要性と成果について更
 に確信するには、
 (イ)祈りの内に浮かぶ願いや思いの一つ一つは聖
    霊の働きであり、守護の天使の声だと言うこと
    によく注目すること
 (ロ)祈りのうちでお呼びするイエス・キリストのみ名
    には、人間を活動的にする実に有益な力が籠
    もっていること
 (ハ)自分の祈りが不純であっても、冷淡であっても
    心を騒がさず、何度も主のみ名を呼ぶことから
    生じる報いを忍耐強く待つこと 
 である。

 キリスト信者よ、勇気を出すのだ。そして主のみ名
 を呼ぶことを止めてはならない!
 ただひたすらに、イエスへの祈りを唱え続けるが良
 い。黙してはならない。不安になってもいけない。
  (ヨハネ14:14)
 「毎日の心配で頭が一杯だったとか、教会に行け
  なかったからという口実で祈らなかった言い訳を
  するわけにはいかない。どこへ行こうと、どこに
  いようと、祈りという手段で自分の心の中に神へ
  の祭壇を作り上げることができる。・・・
  それどころか、努力をする人は、祈りが自分の
  義務のすべてに優先しており、自分の主となる
  活動であるのを確信すれば、どこにいようと祈
  れることが分かるでしょう」

 これには、自分の生き方を分別よく規制し、人との
 会話は短く必要なことだけに限り、無益なお喋りよ
 りも沈黙を好むことが大切です。要らざる心配に気
 を取られ過ぎず、静かな祈りのための時間を捻出
 できます。やがて、絶え間なくイエス・キリストの
 み名を呼ぶことが習慣となり、その体験により救い
 を得る無類の方法である始終祈るということは、
 人間の意志と能力によってできることに気づくの
 です。・・・声を出して唱えていて祈りから、徐々に、
 心の中の祈りとなり、神の国は心の内にあること
 を悟ります。

『無名の順礼者』#7-32022/01/28 17:54


>人間の救いは祈りにかかっていること、祈りは他
  の何よりも必要なものである。祈りがなければ
  キリスト教信仰の何一つとして成し遂げられない。
  私たちは必ず、いつも、どこででも祈らなければ
  ならない。
  人間には自分の精神を揺るぎなく保つ力も、時宜
  を弁えずに浮かぶ思いから自分の心を浄める力
  もない。私たちに清い心と揺るぎない精神を与え
  てくださるのは神だけである。
  (1コリント14:14、ローマ8:26)
 
  それでは、これほど弱い人間は自分の救いのた
  めに何をすることができるのだろうか?
  自分の救いのためにどうしたらいいのだろう!
  人間の自由と才能という範囲内には何があるの
  だろうか?
  滅びることなく、救われるために人間にできること
  には何かあるのだろうか?

  人間は神のみ旨に依存していることをはっきりと
  知り、本当の謙遜を身につけるだろう。神が人間
  の自由と能力にお任せになったのは、絶え間なく
  迸る祈りだけであった。神は私たちに休むことなく、
  いつでも、どこにいても祈るようにお命じになった。
  ここに真の祈り、信仰、掟の遵守、そして救いの
  秘訣が見つかるのである。
  無頓着な祈りであっても、絶え間なく唱えることで
  完成に達するから・・・何と単純で実地の役に立つ
  方法だろうか!
  自分の努力で純潔に達しようと試みる純理的な
  指導とは、何という対照を成していることだろう。
  (ヘブライ13:15)

『無名の順礼者』#7-22022/01/27 17:47


>信仰に加え、救いに必要なその他の条件は善行
  をすること、或いは徳性を備えることである。人間
  が正しいとされるのは、信仰のみによるものでは
  なく行いも数えられるのである。
  (マタイ19:17-19、ヤコブ2:10)

  使徒パウロは人間の弱さについて・・・自分のして
  いることが分からない、自分が望むことを実行せず、
  かえって憎んでいることをする・・・「内なる人」として
  は神の律法を喜んでいるが、私の五体にはもう一
  つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内
  にある罪の法則の虜にしているのが分かる。
  (ローマ3:20、7:14-15、7:22-23)

  それでは、その弱さのために律法を守ることでは
  義とされない人間は、一体どうすれば善い行いを
  することができるのだろうか?

  とてもそんなことはできはしないという人間の苦
  悩は、なんとかそれができるようになりたいと願
  い、そのために祈るようになれば解消するのだ。
  (ヤコブ4:2)
  またキリストご自身「私を離れては、あなたがた
  は何もできない」と言っておられる。
  (ヨハネ15:4-5)
  さて、キリストに繋がっているとは、絶え間なく
  キリストの存在を意識するということであり、・・・
  キリストのみ名によって絶えず願うこと
  (ヨハネ14:14)である。
  このようにすれば神の律法を守ること、善い行い
  をすることことの両方が祈りによって達成できる
  のだ。

『無名の順礼者』#72022/01/26 08:39

>「福音の教えは難しすぎるとか、実行するのが
  不可能である、という口実で落胆する者があっ
  てはならない」 (聖クリソストムス)

 神は人間が救われるのを願っておられ、神の目
 的はご自分の聖なる掟を守ることで、この世でも
 人間に報いてくださろうというものです。

>絶え間のない祈りを通じて明かされる救いの神秘:

 救いを得るにはどうすればいいのか?

 真剣に救いを求める者は、悲しいかな、軟弱になっ
 た人間性が体験から分かり、己の自由意志は不自
 然で、心の傾きは罪に汚れ、精神力は弱り果てて
 いることを知るのである。己の弱さについてのこの
 自覚から、キリスト教信仰が要求し、また救いと聖
 性を受けるに相応しいとされた者が達成した神の
 掟が命じる完成への努力を容易くしてくれる方法が
 ないものだろうかと考えるのが自然である。

 「神に訊ねるがよい。助けてくださるよう神に祈る
  がよい!」

 何よりも先ず、祈りこそがキリスト教信仰が要求する
 ものであり、救いが得られるあらゆることの源だとい
 うことを知っていたなら、もっと成果があがったのでは
 なかったのだろうか?と結論をくだすのである。
 そこで祈りを勉強し始める。

 しかし、祈りの本質とは何であろうか?
 また実際にどういう風に祈っているのか?
 
 本当に祈るということは、知力と心とが片時も忘れる
 ことなく神に向かっていること、神の聖なるおん前を
 歩むこと、黙想という手段により己のうちに神の愛を
 呼び覚ますこと、また呼吸と心臓の鼓動に調和させ
 てイエス・キリストの聖なるみ名を唱える意味だと知
 る。(『修徳の実践』)
 やがて、
 内的祈りと救いの完成を得る唯一で最も力のある方
 法は、絶え間なく祈ることを教えてくれて初めて安ら
 ぎを得るのである。絶えざる祈りは霊的活動を全分
 野に亘って支えてくれる基礎または土台なのだ。
 この啓示の真理を遺憾なく示すために、救いに必要
 な第一の条件は真の信仰である(ヘブライ11:6)。
 信仰のない者は裁かれるだろう。しかし、信仰は私
 たちの内で生じるのではなく神の賜なのである。聖
 霊が霊的場として与えてくださるものなのだ。

 だとしたら、人間はどうすればいいのだろうか?

 信仰の必要性を、自分ではそれを得られないという
 不可能性とどう両立させればいいのか?

 そこで聖書は、「求めなさい、そうすれば与えられる」
 と、それをする方法を指摘しているのだ。使徒たちは
 イエス・キリストに「主よ、私たちの信仰を増してくださ
 い」と祈った。これが信仰を得る実例であり、ここから
 信仰は祈りによって得られることが分かるのだ。