『ペスト』#20 ― 2020/05/09 12:05
>リウーの興味が惹きつけられたのは、神父が世には神につ
いて解釈しうるものと、解釈し得ないものがあると、力を込め
て言った時であった。
悪なるものの世界で、一見必要な悪と、一見無用な悪とがあ
る。地獄に落とされたドン・ジュアンと子どもの死とがある。・・・
子どもが苦しむということは納得できないのである。そして実
に、この地上における何ものも、子どもの苦しみと、この苦し
みにまつわる惨たらしさ、またこれに見出すべき理由というも
のほど、重要なものはないのである。その他の生活において
は、神は我々のためにすべて容易ならしめ給い、そしてそこ
までは、宗教も別に功徳はない。
これに反して、ここで神は我々を壁際に追い詰める。つまり、
そういう状態でペストの囲壁のもとにいるわけであり、そして
その囲壁の死の影の中にこそ我々の利益を見出さなければ
ならぬのである。
神父は、その壁を乗り越えさせてくれるような安易な好都合
さを自分の立場とすることさえしようとは思わなかった。彼と
しては、その子どもを待ち受けている久遠の歓喜はその苦
しみを償い得ると、いうことも容易であったろうが、しかし真
実のところ、彼はその点に関しては何も知らなかった。
>そもそも永遠の喜びが、一瞬の人間の苦痛を償いうると、誰
が断言し得るであろうか。
そんなことを言う者は、その五体にも霊魂にも苦痛を味わい
給うた主に仕えるキリスト者とは断じて言えないであろう。否、
神父は壁際に追い詰められたまま、十字架によって象徴され
るあの八裂きの苦しみを忠実に身に体して子供の苦痛に
まともに向かい合っているのだろう。そして、彼はこの日、自
分の話を聞いてくれる人々に向かって、恐れることなく、こう
言うであろう、
「皆さん、その「時」は来ました。すべてを信ずるか、さもなけ
ればすべてを否定するかであります」。
リウーが、神父は異端とすれすれのところまでいっていると、
考える暇も殆どない内に、神父は早くも力強く言葉を続けて、
この命令、この無条件の要求こそ、キリスト者の恵まれた点
である、と断言した。それはまたキリスト者の徳操でもある。
神父は、彼がこれから語ろうとする徳操に激越なものの存す
ることが、もっと寛容な、もっと古風な道徳に慣れている、多
くの人々の精神に反発を感じさせるであろうことを知っている。
しかし、ペストの時代の宗教は、普段で毎日の宗教と同じも
のであることはできないし、神も、幸福の時代において人々
の魂が安息しかつ楽しむことを許し、あるいは願いさえし給
うことがあり得たとしても、極度の不幸の中ではその魂が激
越ならんことを望み給うのである。
神は今日そのつくられし者共に恩寵を垂れ給い、彼らが「全」
か「無」かの操持という最も偉大な徳操を、是非とも見出し
かつ実践しなければならぬほどの不幸の中に、彼らを投じ
給うたのである。
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