『ペスト』#262020/05/17 16:25


  「僕は知っているんだが、誰でもめいめい自分の内にペスト
   を持っているんだ。何故かと言えば誰一人、全くこの世に
   誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうし
   てひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっ
   かりした瞬間に、他の者の顔に息を吹きかけて、病毒を
   くっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、
   病菌なのだ。その他のもの、健康とか、無傷とか、何な
   ら清浄と言ってもいいが、そういうものは意志の結果で、
   しかもその意志は決して弛めてはならないのだ。立派な
   人間、つまり殆ど誰にも病毒を感染させない人間とは、
   できるだけ気を弛めない人間のことだ。そのためには、
   それこそよっぽど意志と緊張をもって、決して気を弛め
   ないようにしていなければならんのだ。
   実際、リウー、随分疲れることなんだよ、ペスト患者で
   あるということは。しかし、ペスト患者になるまいとする
   ことは、まだもっと疲れることだ。・・・また、ペスト患者で
   なくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何も
   のも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ。
   
   僕は自分がこの世界そのものに対して何の価値もない
   人間になってしまったこと、僕が人を殺すことを断念した
   瞬間から、決定的な追放に処せられた身となったことを
   知っている。歴史を作るのは他の連中なのだ。ぼくは
   また、自分がそういう他の連中を、あからさまに批判で
   きないことも知っている。理性的な殺人者というものに
   は、そうなれる一つの特質があって、それが僕には欠
   けているのだ。・・・今では僕は本来の自分になること
   に甘んじているし、謙譲ということも学んだ。ただ、僕
   が言っているのは、この地上には天災と犠牲者という
   ものがあるということ、そうして出来得る限り天災に与
   することを拒否しなければならぬということだ。
   万一、そう言いながら、自分自身が天災になるような
   ことがあったとしても、少なくとも僕は自分でそれに同
   意してはいない。つまり、罪なき殺人者たらんことを努
   めているのだ。・・・僕は災害を限定するように、あらゆ
   る場合に犠牲者の側に立つことに決めたんだ。
   彼らの中にいれば、僕は兎も角捜し求めることはでき
   るわけだ。・・・どうすれば心の平和に到達できるかと
   いうことをね」

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