人助けをしない日本人に「グローバル人材」は無理2023/10/30 06:35

 from 英語力以前に「見識と教養(Liberal Arts)」が決定的に
     足りない (武居英典)

>世界寄付指数(world Giving Index)2022

  ※ CAF (Charity Aid Foundation) 

 The world's 5 most generous countries : Indonesia > Kenya
> United States Of America > Australia > New Zealand

The world's 5 lowest scoring countries : Lebanon > Egypt
> Afghanistan > Japan > Cambodia

  ※ 118位/119国;’21は、114位/114国

>低すぎる社会貢献意識

  各人の振る舞いレベルの話ではなく、「社会に対する積極
  的な貢献」、特に、「助けを求めている人に手を差し伸べる」
  という意識や行動
  ~例えば、車椅子に乗った人を差し置いてエレベーターに
    乗る・・・
  これは、グローバル人材に必須の素養!!

>最重要は、「差別」に対する見識で、英語ができる/できない
  以前に、人としての見識が問われる!!

マンションとは?2022/12/31 08:50

 from 『すべてのマンションは廃墟になる』(榊淳司)


>マンション購入は資産構築にならない

 殆どの分譲マンションは、廃墟化への時限爆弾を抱えて
 いる!
 それは、「区分所有制度」という所有形態である。

 ~日本に、天寿を全うした分譲マンションは存在しない

   建物が老朽化して住めなくなった後、区分所有者全員
   が取り壊しと跡地の売却に合意、売却代金を専有面積
   で配分して、管理組合を解散する。

  ※ 事故死:地震で取り壊さざるを得なくなったマンション

 ~管理組合の機能不全は、日本的民主主義の典型例で
  あり、高齢化に伴う貧困性がそれに加わる。

>廃墟化「第一ステージ」=資産価値喪失(500万円が目安)

 廃墟化「第二ステージ」=管理不能(管理費の徴収ができ
                 なくなる)

 ⇒ 建て替え不能

 老朽マンションに出口戦略はない!
 
 きれいな入り口(新築マンションの売出し)
 ~数10年後、100年後あるいは・・・年後に「終わり」がやっ
  てくる

>鉄筋コンクリートの耐久年数?

 ~100年?~200年?
 よく分からないのは、人類は今まで100年以上の使用に耐
 えた鉄筋コンクリート造の集合住宅を知らない。パリの築
 200年のアパートや、ローマ時代の集合住宅が現在も使わ
 れていたりするのは、そういった建物は「石造り」であって、
 鉄筋コンクリート造りではない。

>マンションの施工精度は一棟、一棟で、すべて異なる。要
 は、マンションは職人の手造りということ。必ず、ミスがつき
 まとう。
 建築精度が安定しているのは、長谷工コーポレーションが
 プロデュースするマンション。これらは極めて画一的なため、
 同じような空間が並ぶ単純な設計(マンション業界のユニ
 クロ)で、デザインよりも丈夫さやコストが重視されている。
 いつも同じような設計のマンションを、同じ建築資材を使って、
 同じような作業をしながら施工するので、熟練度が上がり、
 結果としてミスも少なくなる。

>逃げ出し方は?

 ・売って出て行く
 ・残って廃墟化と戦う
 ・そのまま何もしない(運命に身を委ねるのもアリ)

(参考) non-recourse loan (非遡及型融資)米

 借り手の返済が不能となった場合、貸し手の金融機関は、
 一定の猶予期間を経た後に抵当権を行使する。しかし、
 借り手は、その住宅(自宅)さえ差し出してしまえば、それ
 で返済完了となる。残債が発生しても、もとの債務者には
 何の責任も及ばない。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#102022/04/26 13:53


>ざっと以上のように、ところどころに曖昧な表現、
 それぞれにおいて述べられている「責任」の意味
 や今後の教会が取るべき具体的な道筋などにつ
 いて不明確なところもあるなど、疑問点もないわけ
 ではない。現在と未来の平和を求めるならば、
 70年前の戦争だけでなく、今現在の戦争・軍事状
 況にも言及して然るべきだが、そうした内容には
 総じて乏しい。歴史が浅く、信者数も一向に増え
 ない日本のキリスト教界でさえも、戦争に対する
 態度は実に様々である。・・・現在の日本各地の
 キリスト教会は、憲法9条、靖国問題、沖縄基地
 問題、自衛隊問題、「慰安婦」問題など、しばし
 ば具体的諸問題にも活発に意見を発している。
 教派単位で声明文を作成し、総理大臣に抗議
 文を提出することも珍しくない。現在の日本の
 キリスト教界の大勢は、憲法9条に肯定的で、
 集団自衛権の行使にも反対しており、教会ぐる
 みで活発な平和運動がなされることもよくある。
 逆に、日本の国益や名誉を守ることに積極的
 な牧師・信者もごく少数ながら存在する。
 一方、信仰者として平和を祈ることは当然ある
 が、キリスト教会の使命は政治運動・市民運動
 そのものではないのだから、教会は政治・社会
 のあまり具体的な諸問題に直接は関わるべき
 ではなく、福音宣教にのみ専念すべきだと考え
 る信者も少なくない。
 日本国内でさえ、信者たちの考えや姿勢は
 多様でなのである。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#92022/04/25 13:40


>日本のキリスト教会による反省と謝罪

 1967年のイースターに、日本基督教団は、
 「第二次大戦下における日本キリスト教団
 の責任についての告白」(通称「戦責告白」)
 を発表した。それは、戦争の過ちを素直に認
 め、謝罪と反省の意を表明するものであった。
 だがそれは同時に、事実上の国の強制に
 よって生まれた日本基督教団の設立そのもの
 の問題に言及するもので、それを支持する側
 と批判する側との間で議論を巻き起こすものと
 なった。戦争責任を教団として謝罪することの
 意義について、また国策による教会の合同の
 意味を神学的にどう理解すべきかなど、論争
 の種を含むものだったからである。

 「教団設立とそれに続く戦時下に、教団の名
  において犯したあやまちを、今一度改めて自
  覚し、主の憐れみと隣人の赦しを請い求め
  る・・・」

 そして、今日多くの問題をはらむ世界の中に
 あって、現在の日本も再び憂慮すべき方向に
 向かっているとして「教団が再びそのあやまち
 を繰り返すことなく、日本と世界に負っている
 使命を正しく果たすことができるように、主の助
 けと導きを祈り求めつつ、明日に向かっての決
 意を表明する」ものと結ばれている。

 2015年にも、同教団は、「戦後70年にあたって
 平和を求める祈り」を発表した。また同年の、
 「在日大韓基督教会・日本基督教団平和メッ
 セージ」では、韓国や中国への侵略と植民地
 化政策を謝罪するとともに、安全保障関連法
 案への反対や、米軍普天間飛行場の辺野古
 への移設に対する反対などを表明した。
 
 日本聖公会も、1996年に、「日本聖公会の戦
 争責任に関する宣言」を公にした。
 「日本聖公会は、戦後50年を経た今、戦前、
  戦中に日本国家による植民地支配と侵略
  戦争を支持・黙認した責任を認め、その罪
  を告白します」
 同会はアメリカ、イギリス、カナダのなどの聖
 公会と繋がりをもつが故に、官憲の圧迫を受
 けたことも事実である。だが戦争の「加害者」
 として目を開くことはできず、「支那事変特別
 祈願式」や「大東亜戦争特別祈願」などを行っ
 ていた。そして戦後も暫くは、祈禱書に「天皇
 のため」の祈禱文を掲載し続けるなど、「天皇
 やその国家体制を肯定する祈禱書を用い続
 け、自らの姿勢を自覚的に正すことを怠って
 きました」と告白している。
 天皇の問題に加え、沖縄での住民虐殺、強制
 集団自決そして米軍基地の脅威など、短い
 文章にもかかわらず、かなり具体的な事柄に
 も触れている点が、日本基督教団の「戦責告
 白」との違いとして挙げられる。
 日本聖公会は、その後も原発問題を含む様々
 な社会問題に抗議や反対の声明を出している。
 2005年には小泉純一郎総理の靖国参拝に対
 する抗議、2012年には沖縄米軍基地へのオス
 プレイ配備に対する反対の声明、2015年には
 「安全保障関連法案に反対する緊急声明」や
 「戦後70年に当たって」などが出された。特定
 秘密保護法や集団的自衛権の行使容認、憲
 法改定への動きなどに対する懸念をも表明し
 ている。

 カトリック教会(日本カトリック司教団)も、
 1995年、「平和への決意――戦後50年にあたっ
 て」という文書を発表している。その中で、
 「私たち日本の司教は、日本人としても、日本
  の教会の一員としても、日本が第二次世界
  大戦中にもたらした悲劇について、神とアジ
  ア・太平洋地域の兄弟たちに赦しを願うもの
  であります。私たちは、この戦争にかかわっ
  たものとして、アジア・太平洋地域の二千万
  を超える人々の死に責任をもっています」
  (1986年、日本カトリック司教協議会会長白柳
  誠一大司教(於)アジア司教協議会連盟総会)
 を引用した上で、自分たちは加害者であったと
 いう事実を認めて謝罪するのであり、「人々に負
 わせた傷を償っていくという責任は、新しい世代
 の日本人にも引き継がれていかなければならな
 いものであることも、ここで新たに強調したい」と
 している。また戦後50年の間に経済的には豊か
 な社会を築き上げることができたが、その発展
 の裏には真の平和を脅かす「様々な非福音的な
 もの」が潜んでいることも見えてきたという。そ
 こで、「私たちカトリック信者には、それを識別し、
 預言者的な役割を果たしていく重い責任があり
 ます」とも述べられている。戦後70の声明につい
 ては既に触れた(#5)通りである。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#82022/04/24 13:35

 
>日本のキリスト教界の戦争協力

 1939年、宗教統制のために、「宗教団体法」
 が公布された。これによってローマ・カトリック
 教会は日本天主公教教団と改称して国家統
 制下におかれ、プロテスタント34派は日本基督
 教団として合同・・・同年には基督教報国団
 (後に戦時報国会に改組)が結成され、さらに
 「宗教報国」「大東亜戦争の目的完遂」「日本基
 督教の確立」を旨とする戦時布教方針が全教
 会に伝えられ、「日本基督教団決戦態勢宣言」
 なども出された。・・・戦時中の日本キリスト教
 会は、総じて戦争に協力してしまったというの
 が実態なのである。
 しかし、信仰と現実の狭間で、キリスト教徒た
 ちの間に、せめて自分たちが「非国民」では
 ないことを示そうとする思いが生じたことを一
 方的に責めるの酷かもしれない。キリスト教界
 が、ひたすら軍部に迎合したというわけではな
 い。今からすれば想像を絶する社会的状況に
 おいて、当時のキリスト教徒たちには大変厳し
 い圧力がかけられていたのである。

 日本のキリスト教界の戦争協力は、アジア太平
 洋戦争から始まったわけではない。キリスト教界
 における指導者の一部は、日清戦争時から、
 積極的に軍隊慰問なども行っていた。・・・「清韓
 事件基督教同士会」が結成され・・・アジア太平
 洋戦争が終わり、宗教団体法が廃止されて日本
 国憲法が公布されると、ようやく完全な形での
 信教の自由が認められるようになった。カトリック
 教会と日本ハリストス正教会は、ほぼ元の形に
 復興したが、日本基督教団に合同されていたプ
 ロテスタント諸派の対応は分かれた。・・・

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#72022/04/23 13:30


>現代における標準的な正戦論は、戦争にいたる
 正義(開戦法規 jus ad bellum )と戦争における正
 義(交戦法規 jus in bello )と先ずは大きく二分さ
 れ、それぞれのなかで、侵略の抑止などの正当な
 理由があること、それが最終的な手段であること、
 成功の見通しがあること、非戦闘員を攻撃しない
 こと、必要以上の攻撃をしないことなど、様々な具
 体的条件が考えられている。cf. カトリックの『カテキズム』

 こうした議論は、トマスが13世紀に議論した三条件
 の延長線上で考察されてきたものなのである。

 「もし或る人が自分の命を守るために、必要以上
  の暴力を行使したならば、赦されざることであろ
  う。これに対して、もし節度を保ちながら暴力を
  排除したならば、正当な防衛であろう。・・・
  さらに、他人を殺すことを回避するために、人が
  節度ある防衛行為を放棄することは、救いを得
  るために必要不可欠なことでもない。なぜなら、
  人は他人の生命よりも自分の生命をより多く配
  慮するように義務づけられているからである」
   (『神学大全』)

 現在でも、絶対平和主義と正戦論との間では様々
 な議論がなされている。キリスト教信仰に基づいた
 絶対平和主義の声も、決して小さいわけではない。
 しかしキリスト教主流派の歴史においては、やはり
 条件付きで戦争を肯定するのが基本的なスタンス
 として引き継がれてきたのである。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#62022/04/22 13:21


>キリスト教における正戦論

 一般には、アウグスティヌスがキリスト教的正戦論
 の源泉と見なされている。彼はもちろん戦争そのも
 のを肯定するわけではない。「ダリウスへの手紙」で、
 剣を持って敵を殺すよりも、言葉によって戦争を終
 わらせるほうが大きな栄誉に値する、と述べている。
 しかし、複数の文書で、キリスト教徒が兵役に就く
 ことは許容しており、軍務自体が信仰に反するとは
 考えなかった。
 ・・・善を行うことを妨げるのは「軍務」militia ではな
 く、「悪徳」malitia である・・・
 アウグスティヌスは、イエスの非暴力の教えを「内
 面化」して解釈すること、つまり心の問題として解
 釈することで、やむをえない限りの暴力は正当化
 したのである。彼によれば、自分の命を守るため
 に相手の命を奪うことは間違いであるが、他者を
 助けるためには戦う義務があるとされる。私人に
 は、法律はやむをえなければ自分を守るために
 相手を殺す許可を与えるが、そうするように義務
 付けているわけではない。しかし兵士には、法律
 は単に許可を与えているのではなく、罪のない人
 を守るために不正な相手を殺す義務や、悪人の
 死刑を行う義務や、武器を使って敵と戦う義務を
 負わせている。アウグスティヌスによれば、公的
 な次元では正当な武力行使、殺人はありうるの
 であって、正しい戦争で人を殺す兵士や死刑を
 執行する刑吏は、殺人者ではないと考えたので
 ある。

 アウグスティヌスの戦争に関する要点は、
 (イ)戦争は領土拡大や相手財産の略取などの
    目的のためには正当化されないということ
 (ロ)正しい戦争は合法的な権力によって実行さ
    れなければならないということ
 (ハ)戦争で暴力を避けることができないにして
    も、その動機の中心には愛がなければなら
    ないということ
 である。

 アウグスティヌスの考えを踏まえて正戦論を整理
 し、現代にいたるその議論の原型をつくったのが、
 トマス・アクィナスである。彼は、ある戦争が正し
 いものであるための三条件を提示している。

 (イ)「正当な権威」:戦争は私人に属する仕事で
    はなく、戦争を行う際の全権と決定は君主の
    権威によらなければならない
 (ロ)「正当な理由」:攻撃される人たちには、何ら
    かの罪のために攻撃を受けるに値すると
    いった原因がなければならない
 (ハ)「正当な意図」:戦争は善を助長し悪を避ける
    といった意図のもとで遂行されなければならない

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#52022/04/21 16:13


>正戦論や正当防衛に触れない日本のカトリック教会

 ローマ・カトリック教会と一口に言っても、歴史が長く、
 大勢の信者たちは様々な政治・経済・生活環境の中
 で生き、それぞれの歴史や価値観を背負っている。
 信者たちの間には多様な考えや行動があり、一枚岩
 ではない。
 現在の日本のカトリック教会は、『カテキズム』や
 『現代世界憲章』で明らかに示されている「正戦論」
 や「正当防衛」を認める考えには、まったくといって
 いいほど触れていない。
 日本のカトリック教会指導者層は、これまで平和問題
 に関して多くのメッセージや抗議声明を発表している。
 例えば、首相の靖国神社参拝(2005年)、中国のチベット
 人弾圧(2008年)、集団的自衛権行使容認の閣議決
 定(2014年)などである。
 「集団的自衛権行使容認の閣議決定についての抗議
 声明」は、日本カトリック司教協議会・常任司教委員会
 の名で、内閣総理大臣安倍晋三に宛てて書かれた。

 「わたしたちカトリック教会は、現代世界の状況の中
  で、軍備増強や武力行使によって安全保障が確保
  できるとする考えは誤っていると確信しています。
   ・・・今ここで、平和憲法の原則を後退させること
  は、東アジアの緊張緩和を妨げ、諸国間の対話や
  信頼を手の届かないものにしてしまいます。(中略)
  対話や交渉によって戦争や武力衝突を避ける希望
  を失ってはなりません。たとえ、それがどれほど困
  難に見えても、その道以外に国際社会に平和をも
  たらす道はないのです」
 
 2015年は戦後70年にあたるため、日本カトリック司教
 団は再び「平和を実現する人は幸い――今こそ武力
 によらない平和を」という声明文を発表した。そこでは、
 これまで世界のカトリック教会は、軍拡競争や武力に
 よる紛争解決に対して反対する姿勢をとってきたと
 述べられている。そして、自分のたちの主張は「何ら
 かの政治的イデオロギーに基づく姿勢ではありませ
 ん」としたうえで、日本の歴史認識、特定秘密保護法、
 集団的自衛権の行使容認、沖縄の基地問題などに
 強い懸念を示している。そして、「平和を実現するた
 めに働き続けることを改めて決意します」と結ばれて
 いる。
 この文章は全体として、過去や現在についての反省・
 批判においては実に具体的である一方で、「改めて
 決意」する、と言うところの「平和を実現」させるため
 の「働き」とは結局何なのかについて、具体的には述
 べられていない。日本の歴史認識、特定秘密保護法、
 集団的自衛権の行使容認、沖縄のアメリカ軍基地な
 どに批判的な姿勢をとることが「平和を実現させるた
 めの「働き」だというのだとしたら、それはキリスト教
 信仰と直接は関係なく、世俗的な政治運動によって
 解決されうる問題であるようにも思われる。

 日本のカトリック司教団などから出されている「戦争」
 「平和」に関する声明文には、バチカンから出された
 文書にあるような、正当防衛や正戦論的考えは皆無
 である。軍人や自衛官の働きを認め、従軍チャプレン
 の役割を肯定する文章も一切ない。一連の文書は
 ・・・戦争や軍事に関するものはとにかく全面的に否定
 するという、素朴な姿勢で貫かれているのである。

 実際のカトリック信者や司祭は決して一枚岩ではない。
 とはいえ、『現代世界憲章』『カテキズム』『教会の社会
 教説綱要』などの内容は、やはりカトリック教会の一つ
 の基準である。これらの文書を見る限りでは、現代の
 カトリック教会は、戦争に対してもちろん否定的ではあ
 るものの、決して純粋な非暴力主義を貫こうとしている
 わけではないのである。
 戦争は極めて複雑な事象なので、平和については戦争
 そのものに関する十分な考察のうえで議論されねばな
 らない。同じ戦争であるからといって、太平洋戦争の
 イメージだけで21世紀の戦争は語れない。戦争は時代
 とともに常に変化していくので、私たちは常に新たな軍
 事・戦略環境を念頭に置く必要がある。・・・これまで当
 然のように用いられてきた概念、あるいは議論の枠組
 みを再考することも求められるであろう。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#42022/04/20 12:05


>21世紀における戦争理解

 21世紀に入ってから。改めて『教会の社会教説綱要』
 がまとめられた。そのなかで、戦争と平和について触
 れられている。
 その基本線は、『現代世界憲章』や『カテキズム』に
 おけるそれと大きな違いはないが、若干の新しい表
 現が見られ、また子供兵やテロリズムなどの問題に
 も言及されるようになっている。
 戦争とは「あらゆる真のヒューマニズムの欠如」であ
 り、「得るところのない冒険」であり、「それは常に人
 類の敗北」であるとされる。それに対して平和は「正
 義の果実」であり、「愛の果実」だと表現されている。
 そして「暴力は決して正当な手段ではありません」
 「暴力は信仰の真実、人間性の真実に反する」と改
 めて強調されている。しかし、それでもやはり、侵略
 戦争が勃発してしまった悲劇的な状況では、「攻撃
 を受けた国の指導者は、武力を行使してでも防衛す
 る権利と義務があります」と述べられている。
 
 正当防衛のために武力を用いる「権利」は、侵略
 行為に対して自己防衛力を持たない罪のない犠牲
 者を保護し救援する「義務」と不可分なのである。
 もちろん正当防衛としての武力行使は、先述の4条
 件が揃った場合にのみ承認されるのであり、攻撃
 が差し迫っているという明らかな証拠もなく「予防
 戦争」を起こすことは認められない。

 この綱要では、子供や青少年を兵士として利用す
 ることに対しても強く批判がなされている。いかな
 る軍隊も子供を兵士とすることはやめるべきであ
 り、戦闘経験のある子供については、彼らを世話し、
 教育し、そして社会復帰させるために、できる限り
 の援助をせねばならないと言う。
 
 そしてテロリズムについては、「今日の国際共同
 体を混乱させているもっとも野蛮な暴力形態の一
 つ」であるとして、それは絶対に否定されるべき
 であり、「テロ行為に対する自衛権が存在する」
 (教皇ヨハネ・パウロ二世)。
 神の名のもとにテロを行うことは冒瀆であり、不
 謹慎であり、テロ行為を行いながら死ぬ者を「殉
 教者」とするのは殉教の概念を歪曲していると
 される。

ローマ・カトリック教会の説く正当防衛#32022/04/19 14:39


>カトリック教会は、特に軍拡競争には強い
 懸念を表明している。・・・
 軍拡競争は対抗軍備に拍車をかけるので、
 平和を保証しない。そもそも、新兵器製造に
 用いられる巨万の富は、本来は貧しい人た
 ちの救済に当てられなければならないもの
 である。したがって、軍拡競争は「人類にとっ
 てもっとも重い傷」であり、「貧しい人々を耐
 えがたいほどに痛めつけるもの」であるとも
 いう。

 確かに正当防衛は認められているが、もち
 ろん、そうしたものを認めざるをえない世界
 が望ましいわけではない。長期的には、い
 かなる戦争もない時代を準備するために全
 力を尽くさなければならないとされている。
 また、平和は兵器の恐怖によって押し付け
 られるものではなく、人々の相互信頼から
 生まれなければならないというが、軍縮も
 とにかくそれを推進すればいいというわけ
 でもないようである。

 「軍縮を実際に始めるためには、一方的に
 ではなく、協定などによって歩調を合わせ、
 真実で有効な保障の裏付けのもとに進め
 るべきである」 (『現代世界憲章』82項)