『ペスト』#142020/05/01 11:17


>ペストが事実上全市を占領するに至った時期からは、その
 激烈さそのものが、そこでははなはだ好都合な結果を引き
 起こした。というのは、それがあらゆる経済生活の組織を破
 壊し、相当多数の失業者を生ぜしめたからである。大部分
 の場合、下層の仕事のほうは彼らの充員によって事情が楽
 になった。
 この時期からは困窮が恐怖にまさる力を示す事実が常に見
 られたのである。

>この時期における大きな苦痛、最も一般的であるとともに最
 も深刻な苦痛は別離ということであった。市民たち、少なくとも
 この別離に最も苦しんでいた人々は、現在の状況に慣れてし
 まったのであろうか?
 彼らは精神的にも肉体的にも、肉のやせ細るのに苦しんで
 いたといったほうがもっと正確であろう。ペストの初めの頃に
 は、彼らは自分の手元から失われた者のことを、極めてよく
 思い出して、懐かしがったものである。しかし、愛するその顔
 や、その笑い声や、今になってそれは幸福な日々だと分かった。
 ある日のことを鮮やかに思い出せたとしても、彼らがそうして
 思い出しているその時刻に、しかもそれ以来実に遠いところ
 となった場所で、相手がどんなことをしているのか、それを想
 像することは困難であった。この時期においては、彼らには
 記憶はあったが、想像が不十分だったのである。

 ペストの第二段階においては、彼らは記憶も失ってしまった。
 彼らはその顔を忘れてしまったわけではなく、その顔を自分
 の内部に見出し得なくなってしまったのである。この長い別
 離の期間の果には、彼らはもう、かつて自分たち同士のもの
 だったあの親しさも、また、いつでもその肩に手をかけること
 のできた相手が、自分の側で一体どんな風に暮らしていた
 ものなのかも、想像できなくなってしまった。
 この点から見れば、彼らはペストの世界そのもの、平々凡々
 であるだけに、一層威力のある世界に入っていたわけである。
 市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ、自ずから
 適応していったのであるが、それというのも、その他にやりよ
 うがなかったからである。彼らは未だ当然のことながら、不幸
 と苦痛との態度を取っていたが、しかしその痛みはもう感じ
 ていなかった。

 まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れること
 は絶望そのものよりも更に悪いのである。以前には、引き離
 されている人々も実際には不幸ではなく、彼らの苦しみの中
 には、消え去ったばかりの、光明の輝きがあった。
 今では、街角やカフェやその友人たちのところで見られる彼
 らの姿は、平静でかつ放心したように、そして実にうんざりし
 た目つきをしているので、彼らのせいで町中が待合室の観を
 呈するほうであった。職業を持っている連中にしても、その
 職業をさながらペストそのものの物腰で、せせこましく、精彩
 もなくやるのであった。誰も彼も皆んな謙遜になっていた。

 いま初めて引き離されている人々も、いなくなった相手のこと
 を語ったり、万人向きの用語を用いたり、自分たちの別離を
 病疫の統計と同じ角度において検討したりすることを、嫌が
 らなくなった。それまでは、自分たちの苦悩を集団的な不幸
 からがむしゃらに引き離していたのに、今ではその混交を
 許容していた。記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在の
 中に腰を据えていた。実際のところ、すべてが彼らにとって
 現在となっていたのである。

『ペスト』#152020/05/02 16:53


>日々の終わりにこの、信者たちにとって良心の吟味の時刻た
 るこの時刻は、吟味するものといえば空虚だけしかない、捕ら
 われの、あるいは流刑の人々にとっては、つらい時刻である。
 その時刻になると、彼らはいっとき戸惑い、それからまた無気
 力状態に戻り、ペストの中へ閉じこもってしまうのであった。

 これは結局のところ彼らの有する最も個人的なものを断念する
 ということであった。

 ペストの初めの時期には、彼らは、他人にとっては何の存在も
 持たないのに、彼らにとっては大いに問題であるような、些細
 な事柄がたくさんあるのに驚かされたものであったし、またそ
 れによって個人生活なるものを体験していた訳であったが、今
 では反対に、彼らは他人が興味を持つことにしか興味を持た
 ず、一般的な考えしか持たなくなり、その愛さえも彼らにとって
 最も抽象的な姿を呈するに至った。

 ・・・ペストは各種の価値判断を封じてしまった。人々はすべて
 を十把一絡げに受れ容れていたのである。・・・ともかく今や事
 態は明瞭であり、災禍はすべての人々に関することであった。
 我々はすべて、市門に鳴り響く発砲の音や、我々の生あるい
 は死亡の各段階をはっきり見切るゴム印の押捺に囲まれて、
 火事やカードや、恐怖や手続きに囲まれて、見苦しい、しかし
 登録される死を予約されて、恐ろしい煙と救急車の静かなベル
 の音の中で、皆んな同じ流刑のパンで身を養いながら、無意
 識の裡に同じような驚天動地の再会と平和を待ち設けていた
 のである。

 我々の愛は確かに相変わらずそこに控えていたが、ただ単
 に、それは用いようのないものであり、担うには重く、我々の
 内部に沈滞して、さながら罪悪か処罰のように実りのないも
 のであった。それはもう、将来のない忍従と、頓挫した期待
 であるに過ぎなかった。・・・無際限であると共に幻想のない、
 同じ諦め、同じ辛抱強さであった。

 ただ、しかし、別離に関する面では、この感情を千倍も拡大
 された尺度に高める必要があろう。この場合には、また別の
 飢餓、しかもあらゆるものを食い尽くす可能性のある飢餓の
 問題であったからである。

『ペスト』#162020/05/03 16:48


>10月の初め・・・リウーと友人たちは、その時、どの程度にま
 で自分たちが疲れているかということを発見したのであった。
 医師リウーは、友人たちや自分自身の態度に奇妙な無関心
 さが増大しつつあるのを看取して、そのことに気が付いた。
 
 (予防隔離所の一つの管理を任されていた)ランベールはペ
 ストの犠牲者の一週間の数を言うことはできなかったし、ペス
 トが昂進中であるか、衰退中であるかについては実際に知ら
 ないでいた。しかも彼としては、それががすべての事実にも
 かかわらず、近々脱出できるだろうという希望を持ち続けて
 いたのである。日夜めいめいの仕事に没頭しているその他
 の連中となると、新聞も読まず、ラジオも聞かなかった。そし
 て仮に誰かが、ある結果を報告すると、彼らはそれに興味を
 持つような振りをするが、しかし実際にそれを迎える態度は
 上の空の無関心さであった。

>リウーは自分の疲労ぶりを判定することができたのであった。
 彼の感受性はもう彼の自由にならなかった。大部分の時は
 硬直したまま、硬化し、干からびてしまっていたが、それが
 折々堰を切っては、もう制御のできないような感動に溺れさ
 せてしまうのであった。
 彼の唯一の防御は、例の硬化作用に逃げ込み、自分の内に
 できている結ぼれを固く引き締めることであった。
 彼の疲労は彼が未だ抱き続けていた幻想まで奪ってしまっ
 た。というのは、まるで期限の見当もつかないある期間にわ
 たって、彼の役割はもはや治療することではないことを彼は
 知っていたのである。彼の役割は診断することであった。
 発見し、調べ、記述し、登録し、それから宣告する。これが彼
 の務めであった。彼は命を助けるためにそこに控えているの
 ではなく、隔離を命ずるためにそこに控えているのであった。

路傍2020/05/04 10:11


アオサギ?2020/05/05 10:08

    @溝澪

『ペスト』#172020/05/06 16:36


>この天災との戦いを続けているすべての人々を次第に冒しつ
 つあった疲労困憊状態の最も危険な結果は、外部の事件や他
 人の感動に対するこういう無関心さの中にはなく、むしろ彼らが
 自ら陥るに任せている投げやりな態度の中にあった。
 人々は次第次第に頻繁に、彼ら自身が規定した衛生規則をな
 おざりにするようになり、自分の身に行うべき数多くの消毒のあ
 るものを忘れたり、時々は伝染に対して何の予防の用意もなく、
 そこにこそ真の危険が存在したのであって、彼らは結局、僥倖
 に賭けていたわけであり、しかも僥倖は誰の味方でもないので
 ある。
 
>ところが、この町の中で、一向憔悴した様子も気落ちした様子
 もなく、さながら満足の権化という姿を保っている人間が一人
 あった。コタールであった。彼は他の人々と関係を保ちながらも、
 依然として一人だけ皆なから離れていた。この小男の金利生
 活者の上機嫌は確かに成長しつつあった。
 「そりゃ確かに、一向によくなりゃしませんがね。しかし、とにか
 く、皆なが同じように巻き込まれてるんですから」

 彼は自分がペストに罹ることがあり得るとは本気で考えてはい
 ないのである。彼の考えは何かの病あるいは深刻な煩悶に悩
 まされている人間は、それと一緒に他のあらゆる病気あるい
 は煩悶を免除されるという考えに基づいて生活しているように
 見える。
 <あなたはこういうことに気が付いたことがありますか、人間は
  いろんな病気をかけもちすることができないんですよ>・・・
 <仮にあなたが、本物の癌だのちゃんとした肺病だのっていう
  ような、重症とか不治とかいう病気に罹っているとしてごらん
  なさい、あなたは決してペストやチフスに罹りゃしませんよ。
  そんなことあり得ないんです>
 
 真偽はともかく、こういう考えがコタールを上機嫌にさせている
 のである。市民たちが呈している懊悩と混乱の兆候を、「とに
 かく、話してごらんなさい。こっちは、あなたなんかより前に、そ
 ういう思いをしたことがあるんですから」という言葉で表現され
 得るような、寛容な、理解のある満足の念をもって考察するた
 めの十分な根拠を持っていたのである。・・・
 
<連中を一緒にならせる唯一のやり方は、やっぱりペストを
  差し向けることですよ>

 世間皆なを自分の仲間に引き入れようと、誰も彼もが試みて
 いる努力、道に迷った通行人に時たま道を教える際に人々
 が振りまく親切さと、かつてはそういう場合に見せつけられ
 た不機嫌さ。「要するに、ペストが彼にとってうってつけのも
 のである。孤独なしかも孤独であることを欲しない一人の男
 を、ペストは一個の共謀者に仕立てた。しかも悦に入ってい
 る共謀者である。彼はその目に映る全てもの、つまり、様々
 の迷信、切迫した人々の心の感じ易さ、できるだけペストの
 話をすまいとし、しかもそのくせひっきりなしにその話をした
 がる彼らのおかしな傾向、苛立たしく、感じやすく、要するに
 不安定で単なる失念を侮辱と取ってしまい、半ズボンのボタ
 ンを一つ失くしたことを嘆き悲しむような感受性など、これら
 すべてのことの共謀者である。

『ペスト』#182020/05/07 09:54


>コタールが数ヶ月、公衆の場所に求めていたもの、豪奢と
 余裕のある生活も、彼が夢見ながら遂にその望みを満足さ
 せることができなかったもの、即ち羽目を外した享楽も、今
 では住民全体がそれを追い求めていた。あらゆるものの値
 段はとめどもなく上がっていたのに、人々がこの時ほど金を
 浪費したことはなく、そして必需品が大部分の者に欠乏して
 いた反面、この時ほど余計なものが乱費されたことはなかっ
 た。実は休業状態であるにすぎぬ有閑性から生まれるあら
 ゆる慰みが、様々の形で増えていくのが見られた。
 以前は二人連れの一組を結びつけているものを一生懸命隠
 そうとしていたその人々が、今では互いにぴったり寄り添って、
 飽きもせずにいつまでも町なかを歩き続けながら、大きな情
 熱に見られる少々思いつめたような放心の中で、周囲の群
 衆も目に入らぬ様子であった。
 そしてコタールは大声で喋り、集団的な熱っぽさや、周囲で
 ばら撒かれる豪勢なチップや、眼前に繰り広げられる数々
 の艶事の中でのびのびとうちくつろいでいた。

 コタールは今の状況がそんなに恐ろしいことではないことを、
 できたら説明してやりたいくらいで・・・<あの連中がよく
 言ってますよね、ペストが終わったらこうしよう、ペストが終
 わったらああしようなんて・・・彼らは自分でわざわざ生活を
 暗くしてるんですよ、黙って平気でいればいいのに。おまけ
 に、彼らのほうの有利な点さえ理解できないでいるんです
 からね。彼らが不幸なのは、自分で心の手綱を弛めない
 からですよ>。

 彼はオランの住民たちの矛盾をありのままに批判している
 のであって、住民たちは彼らを近づけ合う温かなものへの
 欲求を深く感じていると同時に、しかもまた彼らを互いに遠
 ざける警戒心のためすっかりそうなりきることもできないでい
 るのである。隣人に信用が置けないということ、こっちの知
 らぬ間にペストを持って来られたり、うっかりしているすきに
 乗じて病毒を感染させられたりしかねないということが、あま
 りにもよく分かっているのだ。
 ペストが今日か明日にも彼らの肩に手をかけるかもしれず、
 ひょっとすると、こっちが未だ無事息災であることを喜んで
 いる瞬間に、ちょうどそうしかけているかもしれない。・・・
 ともかく可能な範囲で、彼は恐怖の裡に安んじているので
 ある。しかし、彼はそれらすべてのことを彼らより先に味
 わったのであるから、この不安のむごたらしさを完全に彼ら
 と一緒に感じることは、彼にはできないのではないかと思う。
 未だペストで死なない我々一同と同様に、彼も自分の自由
 と生命とが毎日、もう明日にも破壊されそうになっているこ
 とは十分感じている。しかし、彼自身恐怖の中で暮らした
 覚えがあるので、他の連中が今度はそれを経験することを
 普通のことと思っているのである。そうなるとその恐怖も、
 彼がたった一人でそれに堪えている場合ほどには重荷で
 はないように、彼には思われる。

『ペスト』#192020/05/08 10:09


>大部分の人は、たとい宗教上の務めを完全に捨て去ってい
 ないまでも、あるいはそれを甚だしく背徳的な個人生活に全
 く調子を合わせたようなものにしてしまっていないまでも、通
 常の宗教的な務めをまるで不合理な迷信に置き換えてしまっ
 ていた。彼らはミサに出かけるよりも、好んで災よけのメダル
 や聖ロックのお守りを身に着けていたのである。

 日が経つにつれて、人々はこの不幸が実際終わりを告げる
 ことはないのではあるまいかと心配し始め、それと同時に疫
 病の終息ということが、あらゆる希望の対象となったのであ
 る。そこで、古代の道士やカトリック教会の聖者たちによる
 様々な予言が、手から手へ渡り歩くように歩くようになった。
 ・・・最も一般に珍重されたのは、黙示録風の言葉をもって、
 一連の出来事を予告したものであった。これらの迷信がそこ
 で市民にとって、宗教の代わりとなっていた。
 
>バヌルー神父は先ず、数ヶ月の長きに渡ってペストが我々
 の間に存在したことを指摘し、今や、それが我々の食卓あ
 るいは愛する者の枕辺に座り我々の側を歩み、仕事場に来
 るのを待ち受けているのをかくも度々目撃して、それを一層
 よく知った現在では、すなわち今こそ、それが休むことなく語
 り続けていたもの、しかも当初の驚きの中であるいは我々が
 よく聞こうとしなかったかもしれぬものを、おそらく一層よく受
 け取ることができるであろう、ということから説き起こした。
 
 この同じ場所で、前回既に、バヌルー神父が説いたところ
 (#8)は依然として真実である。しかもおそらくなお、我々
 一同誰でもそういうところがあったであろうとし、そして自分
 は胸を叩いて自ら責めるのであるが、彼はそのことを慈悲
 の心なく考え、かつ、言ったのであった。

 しかしながら、依然として真実であることは、あらゆる事柄
 において、常に採るべき点があるということである。最も残
 酷な試練も、キリスト者にとっては、なおかつ利益である。
 そして、まさに、キリスト者が本件において探求すべきもの
 は、すなわちその利益であり、その利益が如何なる点にあ
 るか如何にしてそれを見出しうるかということである。

 神父は、ペストの齎した光景を解釈しようとしてはならぬ、
 ただそこから学びうるものを学び取ろうと努めるべきである、
 と言ったようである。

『ペスト』#202020/05/09 12:05


>リウーの興味が惹きつけられたのは、神父が世には神につ
 いて解釈しうるものと、解釈し得ないものがあると、力を込め
 て言った時であった。
 悪なるものの世界で、一見必要な悪と、一見無用な悪とがあ
 る。地獄に落とされたドン・ジュアンと子どもの死とがある。・・・
 子どもが苦しむということは納得できないのである。そして実
 に、この地上における何ものも、子どもの苦しみと、この苦し
 みにまつわる惨たらしさ、またこれに見出すべき理由というも
 のほど、重要なものはないのである。その他の生活において
 は、神は我々のためにすべて容易ならしめ給い、そしてそこ
 までは、宗教も別に功徳はない。
 これに反して、ここで神は我々を壁際に追い詰める。つまり、
 そういう状態でペストの囲壁のもとにいるわけであり、そして
 その囲壁の死の影の中にこそ我々の利益を見出さなければ
 ならぬのである。
 神父は、その壁を乗り越えさせてくれるような安易な好都合
 さを自分の立場とすることさえしようとは思わなかった。彼と
 しては、その子どもを待ち受けている久遠の歓喜はその苦
 しみを償い得ると、いうことも容易であったろうが、しかし真
 実のところ、彼はその点に関しては何も知らなかった。

>そもそも永遠の喜びが、一瞬の人間の苦痛を償いうると、誰
 が断言し得るであろうか。
 そんなことを言う者は、その五体にも霊魂にも苦痛を味わい
 給うた主に仕えるキリスト者とは断じて言えないであろう。否、
 神父は壁際に追い詰められたまま、十字架によって象徴され
 るあの八裂きの苦しみを忠実に身に体して子供の苦痛に
 まともに向かい合っているのだろう。そして、彼はこの日、自
 分の話を聞いてくれる人々に向かって、恐れることなく、こう
 言うであろう、
 「皆さん、その「時」は来ました。すべてを信ずるか、さもなけ
  ればすべてを否定するかであります」。

 リウーが、神父は異端とすれすれのところまでいっていると、
 考える暇も殆どない内に、神父は早くも力強く言葉を続けて、
 この命令、この無条件の要求こそ、キリスト者の恵まれた点
 である、と断言した。それはまたキリスト者の徳操でもある。
 神父は、彼がこれから語ろうとする徳操に激越なものの存す
 ることが、もっと寛容な、もっと古風な道徳に慣れている、多
 くの人々の精神に反発を感じさせるであろうことを知っている。

 しかし、ペストの時代の宗教は、普段で毎日の宗教と同じも
 のであることはできないし、神も、幸福の時代において人々
 の魂が安息しかつ楽しむことを許し、あるいは願いさえし給
 うことがあり得たとしても、極度の不幸の中ではその魂が激
 越ならんことを望み給うのである。
 神は今日そのつくられし者共に恩寵を垂れ給い、彼らが「全」
 か「無」かの操持という最も偉大な徳操を、是非とも見出し
 かつ実践しなければならぬほどの不幸の中に、彼らを投じ
 給うたのである。

『ペスト』#212020/05/10 12:16


>ある瀆神的な著者が、煉獄なるものは存在しないと断言し
 たことがある。中途半端な度合いというものは存在しないと
 いうこと、天国と地獄だけしか存在しないということ、そして
 人は自ら選んだところに従って救われるが、あるいは落と
 されるかする以外にはあり得ないということであった。
 これは、神父の言うことを信ずるならば、放埒な魂の中にし
 か生まれ得ない類の異端である。何故なら、煉獄というも
 のはやはり存在するからである。しかし、確かに、そういう
 煉獄があまり期待されるべきではないような時代があり、
 赦免されうべき罪などということを口にしえないような時代
 がある。
 すべての罪は大罪であり、すべての冷淡さは罰せられる。
 全かしからずんば無である。神父は、彼が言っているような
 全的な受容という徳は、普通に考えられているような狭い意
 味に理解されるべきではなく、それは月並みな諦めでも、困
 難な自己卑下ということでさえもないとする。
 これは屈従であるが、しかし屈従する者が自ら同意してい
 る屈従である。確かに、子供の苦しみということは、精神に
 とっても心情にとっても屈辱的なことである。しかし、それ故
 にこそ、その中へ入って行かねばならないのである。神が
 望み給うが故に、それを望まねばならないのである。

>このようにしてのみ、キリスト者は何ものも見過ごすことなく、
 しかもすべての出口を閉ざされて、本質的な選択の深奥に
 向かい得るであろう。彼はすべてを否定する羽目に陥るま
 いとして、すべてを信ずることを選ぶであろう。そして、今こ
 の瞬間にも方々の教会で、健気な婦人たちが、患部にでき
 るリンパ腺腫は身体がその病毒を排除する自然の方法な
 のだと聞かされて、
 「神様、どうかあの子にリンパ腺腫をお授けくださいます
  ように」
 と言っている様に、キリスト者は神の意志に、たといそれが
 不可能なものであろうとも、身を委ねる術を知るであろう。