『ペスト』#222020/05/12 13:56


>「あれは理解できる。しかし、これは受け容れることができ
  ない」
 などと言うことは言えない。我々に差し出された、その受け
 入れ得ぬものの心臓に、まさに我々の選択を行うために飛
 びついていかねばならぬ。子供の苦しみは、我々の苦きパン
 であるが、しかしこのパンなくしては、我々の魂はその精神的
 な飢えのために死滅するであろう。

 神父は、結局、如何なる身の処し方を取るべきかを尋ねた。
 ・・・神父は、メルシ派の修道院の81人の修道士の内、4人だ
 けがこの熱病の後に生き残った。そしてこの4人の内で3人は
 逃亡してしまった。しかしこれを読んだ時、パヌルー神父の
 すべての思いはただ1人踏み止まった修道士の上に注がれ
 た。77個の死体を見ているにもかかわらず、踏み止まった、
 その修道士にであった。
 「皆さん、私共は踏み止まる者とならねばなりません」、と
 神父は叫んだ。

>それは何も用心というものを拒否することではない。ただ跪
 いて、すべてを放棄すべきだなどと言っている道学者たちに
 耳を貸してはならない。闇の中を、やや盲滅法に前進を始め、
 そして善をなそうと始めることだけをなすべきである。その他
 の点に関しては、これまで通りの態度を守り、また自ら納得し
 て、すべてを、子供の死さえも、神の御心に任せて、個人の
 力に頼ろうなどとしないようにすべきである。
 ペストの中に離れ島はないことを、しっかり心に言い聞かせ
 ておかねばならない。まことに中間というものは存在しない。
 公憤に値するような事実も許容しなければならない。何故
 なら、我々は神を憎むか、あるいは愛するかを選ばなけれ
 ばならないからである。
 「皆さん、神への愛は困難な愛であります。それは自我の
  全面的な放棄と、我が身の蔑視を前提としております。し
  かし、この愛のみが、子供の苦しみと死を消し去ることが
  できるのであり、この愛のみがともかくそれを必要なもの、
  理解することが不可能なるが故にそしてただそれを望む
  以外にはなし得ないが故に必要なもの、となし得るので
  あります。これこそ、私が皆さんと共に分かち合いたいと
  願った困難な教訓であります。これこそ、人間の眼には
  残酷に見えながら、神の御眼には決定的なものであるこ
  との信仰であって、そこに我々は近づかねばならぬの
  であります。・・・この最高所においては、すべては融合し、
  すべては同等となり、表面不正義と見えるものから真理
  が迸り出るでありましょう」

 (タルーは)パヌルーの考えは正しい、と考えた。罪なき者が
 目を潰されるとなれば、キリスト教徒は信仰を失うか、さもな
 ければ目を潰されることを受け容れるかで、パヌルーは信仰
 を失いたくない、とことんまで行くつもりだと言おうとしたんだ。

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