セネカ#6-2 ― 2020/06/21 18:17
>「神意」について:
何故、何らかの災厄が徳ある人々に起こるのか、神意が
あるにもかかわらず。
・災厄、困難、不幸、辛苦が徳ある人間に下されることは、
その人のためにも全人類のためにもなることなのだ。そ
れは神与えた試練であって、試練を経て人はいかなる偶
然(運命)にも動ぜず、すべてを自己の徳の支配下に置く
境地に至ることができるからだ。
神は全宇宙をくまなく支配し、全宇宙に満ちているものゆ
え、むろんそれは人間の内にもある。神と人間とは近親関
係にある。相似形だといってもよい。人間の内にある神性
は、神=理性=ロゴスの種子であり、「種子的理性」であ
る。神はそれを強く育てるために試練を与えるのだ。
神はそれ故に、父が我が子を育てるように、善き人を甘
やかさず、試し、鍛え、自分に似た者に形作って行くのだ。
(ストア派の考え方)
「骨折りと苦痛と喪失を与えて、彼らを安閑とさせないでお
くがいい、彼らが真の力を獲得するように」
・何の妨げにも遭わなかった幸福は、どんな一撃にも堪えら
れません。だが、絶えず自分の障害と戦って来た者は、ど
んな苦境も逃れず、たとえ地面に倒されても、膝で立って
戦い続けるのです。
・良寛は出雲崎の名主の家に生まれ、そのまま家を継げ
ば裕福で安楽な暮らしが約束されていたのに、その家を
棄てて生涯を一所不在、乞食僧として送った。およそ所
有物のないところに生きた。身を常にゼロに置く修行の
姿だった。ゼロに身を置くから、与えられた一鉢の米に
も感謝する。寒さに無防備な草庵の冬に耐えるから、春
の訪れをどんな人よりも楽しく感じる。
・失業、解雇、破産といった試練、運命の与える災難に対し
て挫けない心を作るには、普段から心を練っておかねばな
らないのである。セネカはあらゆる試練に堪え抜いて、苦
を苦とも思わなくなった人こそ、大人物だと言う。だから、
苦難に遭わない人は不幸だ、という
パラドックスがそこに生まれる。
「あなたはこれまでずっと敵対関係もなく人生を渡ってきた
から、あなたに何ができるか、誰一人知らないでしょう。
おそらくあなた自身でさえも」
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