ヘレン・ケラー#12024/01/01 07:09

 「私は今でも、あの36年前の出来事に驚きと興奮を禁じ
 得ません。それはあまりに特異で、奇跡的で、当惑させる
 ような際立った事件だったのです。
 ・・・文字通り、私は話すという概念を持っていませんでした
 し、私の触覚も、話す言葉の微妙な振動を感知するほど
 敏感ではなかったのです。
 私は肉体的な聴覚を持っていないので、自分の考えを
 聞いてもらうだけでなく、理解してもらえるようになるまで
 は、自分に可能な思考力を最大限に働かさなければなり
 ませんでした!・・・」(ヘレン・ケラー『光の中へ』、p.200)

 「私が耐えてきた苦痛と失望は測りしれませんが、外の
 世界と私自身とを結ぶこの言葉という生きた絆を保って
 ゆける歓びのためなら、充分払うに値する代価でした。
 はっきりと発音し、言葉に感情を込めることを学ぶに
 従って、私はますます古今不滅の奇跡、つまり思考の
 リアリティを感じるようになりました!思考―― そこから
 書物が、哲学が、科学が、文化が、人類の歓びと悲嘆が
 生み出されるとは!理解という光が私の心に溢れた時、
 まるで深夜の暗がりを長年旅してきた孤独な盲人が、
 突然太陽やその光に照り映える世界に出くわしたかの
 ようなちょうどそれと同じような状態が私に訪れました。
 そして私は、言葉というものが、知識の、思考の、幸福の、
 貴重な シンボルであるとことに気がつきました。普通の
 人たちは言葉の使用に慣れていて、自分がいつから
 それを使うようになったのか思い出せません。ところが、
 私はそれとは違った経験をしたのです。
 「(サリヴァン先生は)再び力を込めて W-A-T-E-R と書
 きました。冷たい水の筋が私の手を流れている間、私は
 全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと
 立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧き上
 がりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。
 それは、まるで死から甦ったような感動でした!」
 (同書、pp.201-203)

ヘレン・ケラー#22024/01/02 07:20

 「先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走り抜
 ける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を
 使えば私も人に意志を伝えることができるのだということ
 を、私は理解したのです。それは決して忘れることのでき
 ない素晴らしい一日でした!前へ後ろへ素早く駆け巡る
 思考がやってきました! 思考は、頭から出て全身にくま
 なく広がってゆくようでした。今ではそれが私の精神的
 目覚めであったことが分かります。それは、何か啓示的
 な性質を帯びた経験だったように思います。
 気持ちのいい感覚が私の中をさざ波立って通り抜け、
 心の中に閉じ込められていた甘く不思議な想いが 歌い
 始めました。この最初の啓示は、暗い無音の牢獄で過ご
 したすべての年月を充分あがなってくれるものでした。
 凍りついた冬の世界に陽がさすように、あの”水”という
 言葉が私の心の中に沁み込んでいったのです。この素
 晴らしい出来事が起こる以前の私には、食べて飲んで寝
 るという本能の他には何もありませんでした。私の日々
 は、過去も現在も未来もなく、希望も期待もなく、好奇心
 も楽しみもない空白だったのです。」
  (ヘレン・ケラー『光の中へ』、pp.203-204)
 
 「眼が見える 友人たちにとっては何もないところに、私は
 しばしば 美しい花や小鳥や笑いさざめく子供たちを感じ
 取ります。彼らは訝しそうに、私が「海にも陸にも決して
 なかったような光」を見ているのだと言い張ります。けれ
 ども、彼らの人生にかくもたくさんの不毛の地があるのは、
 彼らの神秘的感覚が眠っているためだということを、私は
 知っています。彼らはヴィジョンよりも”事実”を好みます。
 彼らは科学的実証を求め、それを手にすることができま      す。・・・( しかし) 生が死と出会って一つになるように、
 科学は霊と出会って一つになるのです。」(同書、p.210)

ヘレン・ケラー#32024/01/03 16:16

 「”友なる神”を信じるという単純で子供のような信仰は、
  どこからやってくる問題でも全て解決してく れます。
  右を向いても左を向いても難問題が待ち構えています
  が、それは人生の道連れであり、性格 と個人的資質
  との結合から生じるものです。そうした難問に立ち向か
  うには、自分を不死の存在と想定し、
  『まどろむこともなく、眠ることもなく』(詩:121-4)
   私たちを見守り導いてくださる”友なる神”がついてい
  ると信じるのが一番良い方法です。もっともその際は
  神にすべてを委ねなければなりませんが――」
  (『光の中へ』 pp.189-190)

   詩121: 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
       わたしの助けはどこから来るのか。
       わたしの助けは来る
         天地を造られた主のもとから。
       どうか、主があなたを助けて
         足がよろめかないようにし
       まどろむことなく見守ってくださるように。
       見よ、イスラエルを見守る方は
         まどろむことなく、眠ることもない。
       主はあなたを見守る方
       あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
       昼、太陽はあなたを撃つことがなく
       夜、月もあなたを撃つことがない。
       主がすべての災いを遠ざけて
       あなたを見守り
         あなたの魂を見守ってくださるように。
       あなたの出で立つのも帰るのも
         主が見守ってくださるように。
       今も、そしてとこしえに。

ヘレン・ケラー#42024/01/04 07:04

 「もし自分の内奥の存在がこうした考えでがっちりと守ら
 れていれば、自分の考えを制限することなく、望むこと、
 必要なことはほとんど何でも実現できます。苦痛からは
 耐え忍ぶ美しいすみれの花が育ち、”聖なる炭火”の
 ヴィジョンはイザヤの唇に触れてその生命の霊を燃え
 立たせ(イザヤ:6-1~8)、満足は宵の明星とともに訪れ
 ます。私は自分の身体的障碍をどんな意味でも神罰だ
 とか不慮の事故であると思い込んだことは一度もありま
 せん。もし そんな考え方をしていたら、私は障碍を克服
 する強さを発揮することはできなかったはずです。
  (『光の中へ』 p.190)

  イザヤの召命:「災いだ。わたしは滅ぼされる。
           わたしは汚れた唇の者。
           汚れた唇の民の中に住む者。
           しかも、わたしの目は
             主なる万軍の主を仰ぎ見た。」
          するとセラフィムのひとりが、わたしの
          ところに飛んで来た。
          その手には祭壇から火鉢で取った炭火が
          あった。
          彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
          「見よ、これがあなたの唇に触れたので
          あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
          そのとき、わたしは主の声を聞いた。・・・ 

 <不運や不遇やや自分の失敗ですら、決して悲観的に
   無抵抗に受け入れるべきではない。我々は精神的奴
   隷状態に決して甘んじてはならない。自ら進んで恐れ
   ることなく自分自身を覗き込み、何をすべき かについ
   ての新しいアイデアと、意志力を強化する方法とを見
   つけ出すべきである。そうすれば神は、我々のすべて
   の要求に充分見合った光と愛をくださるだろう>
   (スウェーデンボルグの教え)

ヘレン・ケラー#52024/01/05 07:11

 「私たちの内側には、あえてさらけ出さなかったり、そうし
 たいと思わなかったり、そうできなかったもっと多くの感情
 や力や人間らしさがあり、最も近しい友人ですらそれを知
 らずにいるということに、私たちはいくたび気づかされる
 ことでしょう。私たちはあまりに自分自身を知らなすぎま
 す。だからこそ、内なる自己を開き、無知を追放し、仮面
 を剥ぎ取り、古い 偶像を捨て、間違った規範を打破する
 ために、私たちには障害と試練が必要なのです。」
  (『光の中へ』p.194)

 「眼というものは、それぞれの対象物の中にもっと多く見
 ようと訓練することによって発達します。私たちの霊につ
 いても同じことが言えます。私たちは日々の出会いに潜
 んでいる新しい生命の可能性をより充分に見極めてゆく
 につれて向上してゆきますが、この肝心な事実を忘れた
 り無視したりする と、感覚が私たちを迷路へ導いてし
 まいます。だからこそ、生活の場にさし出されている内な
 る生命の偉大さを私たちに知らしめるためにも、また天
 から絶好の機会が与えられるということを示すためにも、
 私たちには障害が必要なのです。・・・
 自分の経験が本当に神によって祝福されたものである
 かどうかは、外側から判断することはできません、私たち
 自身がそこに何を注ぐかによって、それが毒の盃ともな
 り、健康な生命の盃ともなるのです。・・・試練は私たち
 の生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能な
 あの高い天命に備えて 私たちに強さを身につけるよ
 う促す、神の激励なのです。自分を超えたものに向
 かって努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得される
 のです。
 ・・・この世の十字架を背負われた主イエス・キリストの
 模範を見習って、私たちもそれぞれ自分の障害を担っ
 てゆこうではありませんか。 (同書、p.195、pp.196-197)

ヘレン・ケラー#62024/01/06 07:22

「私には自分の持っている感知の力が”神秘的”なものか
 どうかは分かりませんが、それが覚知的なものであるこ
 とは確かです。それは、遠くにあるものを盲人が認知で
 きる領域内へ運び込む能力であり、だからこそ星たちで
 さえまるで戸口にあるように思えるのです。この感知力
 は私を霊界へ 結びつけてくれます。また、不十分な触
 覚の世界から得られる限られた経験を検証し、それを
 霊的意味に翻訳して私の心へと差し出してくれるのも
 この感知力です。それは私の中の人間的なものに神秘
 的なものを示し、この世と”大いなる彼岸”との架け橋、
 今と永遠との架け橋、神と人との架け橋を築いてくれま
 す。この感知力は思索的で、直覚的で、回想的です。
 宇宙には客観的な物理世界だけでなく、客観的な霊界
 も存在しています。物理世界に内側と外側があるよう
 に、霊界にも内側と外側があり、そのそれぞれがリア
 リティを持っています。そして霊界は物理の世界の内側
 にあって、しかも優位に立って おり、霊的なものを無視
 して物質的なものが使われるのでなければ、生命のこの
 二つの層の間に対立はありません。」
 (『光の中へ』pp.197-198)

ヘレン・ケラー#72024/01/07 07:26

「私の生活は、盲、聾、啞という三重苦のためにとても
 複雑なものとなっていますので、思索と努力で 自分
 の経験を合理化しなければ、ごく単純なことすら行う
 ことができません、もし、外側の世界を理解しようとせ
 ずに、いつも神秘的な感覚だけを働かせていたら、私
 の進歩は妨げられ、あらゆるものが身の回りに崩れ
 落ちて混沌となっていたことでしょう。
 ですから、色や、音や、光や、また触知できない現象に
 ついての観念を組み立てる時に、たとえ間違いを犯す
 としても、私は常に外側の生活と内側の生活との均衡
 を保つように心がけなければならないのです。また、
 他人の経験を参考にし、それを当てにしなければ、私
 は自分の触覚を使うこともできません。さもなければ
 私は迷路に迷い込むか、闇の中を堂々巡りするほか
 はないのです。」 (『光の中へ』pp.198-199)

<自分の外側で起こっていることを見たり、認知したり
 するのは内側の人間であり、この内側の人間を源泉
 として、感覚的な経験は生き生きとしてくる。・・・ だが、
 感覚は外側からやってくるという誤りはあまりに当たり
 前で一般的であるために、感覚から離れて抽象的に
 考えない限り、素朴な精神はもとより合理的な精神
 ですら、その誤りから脱することはできない>
 (スウェーデンボルグ)

ヘレン・ケラー#82024/01/08 07:31

「意識の太陽が初めて私の頭上に輝いた時のその
 奇跡を考えてみてください!
 すでに枯死していた私の若い命の切り株が、知識と
 いう水に浸されて再び育ち、再び芽吹き、再び幼い
 花を咲かせて香り立っ たのです!
 私は心の底から「生きていてよかった!」と叫びました。
 私は、震える二本の手を生命に向かって差し出した
 ものです。それ以後は、沈黙の世界が私に無言を押し
 付けようとしても無駄でした!
  私が目覚めた世界は依然として神秘的でしたが、そこ
 には希望と愛と神があり、それ以外のものは問題では
 ありませんでした。」(『光の中へ』pp.199-200)

「けれども私の場合は、言葉が思考のシンボルである
 ということをある日突然理解したのです」(同書、p.202)

「それはあたかも光のなかったところに光がさし、漠然と
 した世界が燦然たる確実性を帯びてきた、と いった
 感じでした」(同書、p.205)

「私は宗教を持たない自分を想像することが出来ません
 ・・・眼が見えず、耳が聞こえない者にとって、霊の世界
 を想像するのは難しいことではありません」
 (同書、pp.208-209)

「自分の人生を振り返る時、私は一度も会ったことの
 ない人たちからとても大切な恩恵を受けているよう
 に感じます。というのも、私が最も愛する交わりは、
 心の交わりであり、私にとって最も誠実で頼りがい
 のある友は、霊の友だからです。」(同書、p.208)

ヘレン・ケラー#92024/01/09 07:37

「スウェーデンボルグの描写によれば、天界というのは、
 単に素敵な想像を寄せ集めた世界ではなく、住むこと
 のできる実際的な世界です。
 忘れてならないことは、死というのは生命の終わりなの
 ではなく、とても重要な経験の一つにすぎないということ
 です。近くにいる人であれ遠く離れている人であれ、
 存命の人であれ亡くなった人であれ、私が地上で愛し
 た人たちはすべて私の想念の大いなる静寂の中に生
 きていて、それぞれの個性、それぞれの流儀と魅力を
 保っています。
 孤独を慰めたければ、私はいつでもその人たちを身近
 に呼び寄せることができます。

 人がこのことをなかなか信じることができないのは、
 それが証明できないからというよりも、むしろ本人自身
 が懐疑的な態度をとっているからです。
 その人の利己的な欲望が霊的な努力を圧倒してしま
 うのです。

 自分の霊的存在の本当の意味を理解せず、物質的
 な存在だけが現実だと信じるのです。・・・

 学識ある評論家の中には、私を侮蔑の臼にかけて粉々
 にしようとする人たちもあることを、私は知っています。
 彼らは私の貧しい哲学を痛烈な揶揄のかなしき(注:鉄敷)
 に乗せ、科学から選び取った理論のハンマーで鍛え
 直そうとするでしょう。『森羅万象は眼に見えないアトム
 という物質によってみずからを完成する。それが始まり
 であり、終わりなのだ』と。そうかもしれません。
 
 けれども、依然として百合の花には露が宿り、バラの花
 の奥深くには芳香が秘められ、木の葉の下では小鳥が
 翼を休めているではありませんか!
 私には死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は
 理解することができません! 死の前で崩れ折れるよう
 な信仰は頼りがいのないか細い葦にすぎないからです。
 私は、私の魂が霊の光の中に立ち、『生と死は一つの
 もの』だと叫ぶまで、確固とした思想をもってあらゆる
 視力を超えた視力につき従ってゆきます。」
  (『光の中へ』 pp.205-208)

シニア・ライフ心得#12024/01/10 16:30

from 本多信一『実年を生きる』

 ・納得の行く宗教観をボチボチ築く

 ・自分の死に対して、一応の考え方を築いておく

. ・老衰はジタバタせずに甘受する

 ・”貧乏のけいこ”を積んでおく

 ・「裸の人」に回帰するトレーニングを積んでおく

 ・リスク・マネジメント:

   定年後に病気になって働けなくなったら、
   → 最後は生活保護を受ける

   妻に先立たれたり、離婚を求められたら、
   → 淋しい事だが人は本来「孤独」な存在と
     達観できるように

   定年後ボケたら 
   → ボケたら自分のことも分からなくなるから、
     あまり心配はしない

 ・うまい話に乗らぬようにする