お玉ヶ池2013/01/21 20:51

「神田お玉ヶ池の千葉道場」なる「お玉ヶ
池」を求めて、岩本町辺りをうろつき回っ
てみました。分からないことは未だありま
すが、備忘録用にまとめておきます。

先ず登場する方は太田道灌です。彼が江戸
城を築造(1457年)し、その鬼門を封じる
べく、「川辺に柳を十町にわたり柳を植え
た」。これが大きくなり、「柳の森」と称
して、さらに「柳原」となったものである、
と『柳森神社略誌』は伝えています。現在
も、柳原土手は、萬世橋から柳橋まで、神
田川沿いにその後をたどって歩くことがで
きます。
道灌の頃、川筋は2本ありました。平川と
谷田川です。江戸城の眼前を流れていたの
は平川で、麹町台地と本郷台地西側の間を
下り、大手町辺りで海(日比谷入江)に注
いでいました。谷田川は、本郷台地東側と
上野台地の間を流れ、不忍池、お玉ヶ池を
通り、江戸橋辺りで海(荒川(現、隅田川)
河口)へ注いでいました。多くの先学が
「お玉ヶ池は存在した」とする根拠の一つ
がこれです。長禄2年(1458)に、平川を
神田錦町辺りから川筋を東側に曲げて谷田
川河口に合流させたり、谷田川も同様に流
路を、後に神田川となる川筋に変えたよう
です。とにかく、植樹と流路の変更でお玉
ヶ池は消えたようなのです。

次に、徳川家康が天正18年(1590)に江戸
にやって来ました。徳川歴代将軍は、運河
を掘って、水を抜きながらの埋め立てを、
寛永が終わる頃(1643年)までしきりに繰
り返しています。その過程で、慶長10年
(1605)、再度の工事が行われました。こ
こに神田川が出現します。これで、筋違橋
(昌平橋と萬世橋の間、元の交通博物館の
一帯)から下流へは水源がなくなりました。
ただ、依然として湿地で、水たまりのよう
なお玉ヶ池は残ったようです。そこで寛永
年間に、岩本町から鍛冶町の一帯を埋め立
てました。

多くの先学の話をまとめると以上のように
なるのですが、何と言っても不思議な事は、
お玉ヶ池は二度、姿を消したことになって
しまうことです。このような訳ですから、
想像をたくましくして、お玉ヶ池なる地名
をもう少し探ってみます。
それは、つまり、お玉ヶ池は溜池であった
のではないか、ということです。「溜池」
地名は、上流からの真水と下流からの海水
が合流して池のようになるところです。だ
から、上流で水路を絶たれても水は抜けず、
本格的に埋め立てなければならなかったの
です。そういう場所だったわけですから、
「お玉ヶ池」を今も冠して、この場所の記
憶を伝えているのでしょうか。