「おっぱい」紫陽花#1 ― 2022/06/01 14:38
「おっぱい」紫陽花#2 ― 2022/06/03 14:41
コヘレトの言葉#1 ― 2022/06/04 08:48
from 『すべてには時がある』(NHKこころの時代)
「コヘレトの言葉」をめぐる対話 若松英輔vs.小友聡
※(ガブリエル・マルセル『道程』)
「私の哲学作品は大陸だ(創世記、預言書、etc.)。
演劇は島々(コヘレトの言葉)だ。
だがね、親しい友よ――秘密は島々にあるのだよ」
>今日という時代は、それまでは見ないで、あるいは考えない
で過ごしていけると思っていたものが、無視できなくなった危
機のとき・・・だから<言葉の杖>が必要(若松)
「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな」
これは、諦めずに「それでも生きよ」というコヘレトの呼びかけ。
現代では、「成功」こそが価値だと言われます。しかし、挫折
や苦しみといった、「失敗」に分類されてきたものにこそ価値
があるとコヘレトは言う。(小友)
『コヘレトの言葉』は「知恵文学」とも呼ばれ、これはイスラエル
の知恵について書いてある文学書ということです。イスラエル
の知恵とは、世界の法則、または秩序を探究した結果に見出
した知恵のことです。そのような知恵から、この世をどう生きる
かということを考えている一連の書が知恵文学です。
このような知恵文学の中でも、『コヘレトの言葉』は新しい知恵
を模索している。それは、世界が見通せなくなってしまった中
でも生きて行くための新しい知恵です。(小友)
イエス・キリストの時代、聖書というのは旧約聖書しかありま
せん。新約聖書の中に「聖書」という言葉あれば。それらは
すべて旧約聖書のことを指している。(小友)
※聖書の始まりは「捕囚」体験;
BC587 エルサレム神殿崩壊~イスラエル王国滅亡
神の民はすべてを失ってしまい、捕囚の地に連行される。
神が何を自分たちに期待しているのか、ということを含め
て、自分たちの民族の歴史を書き残そうとした。創世記の
「混沌としている」世界こそが、すべてを失った捕囚の民の
現実を証言している。 「光あれ」といわれる、ここに正に
捕囚の民が経験したことが表現されている。
旧約聖書の言う「知恵」は、神(=内なる「いのち」)との繋が
りの中で明らかになっていくものだと思います。「いのち」は
私たちを生かしているハタラキそのもの!知恵は「いのち」
によって齎されるもの!私たちが知恵と出会うのは、真の
意味での人生の経験をするときです。
知恵は私たちを日常生活の中にもう一度呼び戻す。その
現場はここだということを教えてくれる気がするのです。そ
して、「コヘレトの言葉」は大切なものはそのような日常生
活の些細な処に隠れていると示唆してくれる。
「コヘレトの言葉」をめぐる対話 若松英輔vs.小友聡
※(ガブリエル・マルセル『道程』)
「私の哲学作品は大陸だ(創世記、預言書、etc.)。
演劇は島々(コヘレトの言葉)だ。
だがね、親しい友よ――秘密は島々にあるのだよ」
>今日という時代は、それまでは見ないで、あるいは考えない
で過ごしていけると思っていたものが、無視できなくなった危
機のとき・・・だから<言葉の杖>が必要(若松)
「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな」
これは、諦めずに「それでも生きよ」というコヘレトの呼びかけ。
現代では、「成功」こそが価値だと言われます。しかし、挫折
や苦しみといった、「失敗」に分類されてきたものにこそ価値
があるとコヘレトは言う。(小友)
『コヘレトの言葉』は「知恵文学」とも呼ばれ、これはイスラエル
の知恵について書いてある文学書ということです。イスラエル
の知恵とは、世界の法則、または秩序を探究した結果に見出
した知恵のことです。そのような知恵から、この世をどう生きる
かということを考えている一連の書が知恵文学です。
このような知恵文学の中でも、『コヘレトの言葉』は新しい知恵
を模索している。それは、世界が見通せなくなってしまった中
でも生きて行くための新しい知恵です。(小友)
イエス・キリストの時代、聖書というのは旧約聖書しかありま
せん。新約聖書の中に「聖書」という言葉あれば。それらは
すべて旧約聖書のことを指している。(小友)
※聖書の始まりは「捕囚」体験;
BC587 エルサレム神殿崩壊~イスラエル王国滅亡
神の民はすべてを失ってしまい、捕囚の地に連行される。
神が何を自分たちに期待しているのか、ということを含め
て、自分たちの民族の歴史を書き残そうとした。創世記の
「混沌としている」世界こそが、すべてを失った捕囚の民の
現実を証言している。 「光あれ」といわれる、ここに正に
捕囚の民が経験したことが表現されている。
旧約聖書の言う「知恵」は、神(=内なる「いのち」)との繋が
りの中で明らかになっていくものだと思います。「いのち」は
私たちを生かしているハタラキそのもの!知恵は「いのち」
によって齎されるもの!私たちが知恵と出会うのは、真の
意味での人生の経験をするときです。
知恵は私たちを日常生活の中にもう一度呼び戻す。その
現場はここだということを教えてくれる気がするのです。そ
して、「コヘレトの言葉」は大切なものはそのような日常生
活の些細な処に隠れていると示唆してくれる。
コヘレトの言葉#2 ― 2022/06/05 08:58
>「空」、人生の儚さを知る
「人生は虚しいからこそ生きる意味がある」
コヘレトは逆説を語っている。これが『コヘレト』の
読み方(小友)
「悲しむ人は幸いである」マタイ5:4
「闇は私たちに光を準備している」(若松)
聖典は、それを信じる者たちによって読み解かれる書
物である。私たちに、「知る」ことを手放し「信じる」ことを
求めてくる書物です。「信じる」とは、人間を超えた存在
に自分を聞いていこうとする試み・・・(若松)
「空の空」
1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべて
は空しい。
1:3 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。
1:4 一代が過ぎ、また一代が興る。地はとこしえに変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。
1:6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ
巡りつつ、吹き続ける。
1:7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
1:8 何もかも、もの憂い。
語り尽くすことも出来ず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
1:9 かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何もない。
>「空」=へベル=束の間(小友)
(意味の広がり)=無意味、無益、不条理、無、etc.
~ 「空」⇒実在 as like 「無常」⇒「永遠」 in 『方丈記』
「空」は仏教専有の言葉ではなく、宗教に偏在している
とても大事な「不可視の実在」
空こそ実在で、あらゆる「有」の源(若松)
9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、
愛する妻と共に楽しく生きるのがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦
の報いなのだ。
出来事は常に「束の間」である。だから、「空しい」からこ
そ生きようと反転するのが「コヘレトの言葉」を読む時の
ポイント(小友)
~「報い」とは、今生きていることが神からの「賜物」
~生かされている以上、安心して生きろ!
「あなたの知らないところで、誰かがあなたを支えている」
「人生は虚しいからこそ生きる意味がある」
コヘレトは逆説を語っている。これが『コヘレト』の
読み方(小友)
「悲しむ人は幸いである」マタイ5:4
「闇は私たちに光を準備している」(若松)
聖典は、それを信じる者たちによって読み解かれる書
物である。私たちに、「知る」ことを手放し「信じる」ことを
求めてくる書物です。「信じる」とは、人間を超えた存在
に自分を聞いていこうとする試み・・・(若松)
「空の空」
1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべて
は空しい。
1:3 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。
1:4 一代が過ぎ、また一代が興る。地はとこしえに変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。
1:6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ
巡りつつ、吹き続ける。
1:7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
1:8 何もかも、もの憂い。
語り尽くすことも出来ず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
1:9 かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何もない。
>「空」=へベル=束の間(小友)
(意味の広がり)=無意味、無益、不条理、無、etc.
~ 「空」⇒実在 as like 「無常」⇒「永遠」 in 『方丈記』
「空」は仏教専有の言葉ではなく、宗教に偏在している
とても大事な「不可視の実在」
空こそ実在で、あらゆる「有」の源(若松)
9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、
愛する妻と共に楽しく生きるのがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦
の報いなのだ。
出来事は常に「束の間」である。だから、「空しい」からこ
そ生きようと反転するのが「コヘレトの言葉」を読む時の
ポイント(小友)
~「報い」とは、今生きていることが神からの「賜物」
~生かされている以上、安心して生きろ!
「あなたの知らないところで、誰かがあなたを支えている」
コヘレトの言葉#3 ― 2022/06/06 09:08
>「風」=ルーアハ(息)
1:14 私は太陽の下に起こることはすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
1:15 ゆがみは直らず、欠けていれば数えられない。
「追う」=レウート(養う、抱く)~風を養う、風を抱くといった
意味になる。
「ルーアハ」=風、息、霊といったような多層的な意味があ
る(as like へベル)~息=神の息⇒人間の創造
コヘレトは、紀元前2世紀頃のヘレニズム時代に生まれた
ので、ギリシャ文化+オリエント文化(仏教的)を背景として
いる。
cf. 『エックハルト説教集』
イエスが神殿から商人(何らかの見返りを求めて、祈った
り善行を積む人)を追い出したのは、(どのような雑念を
も捨てて)神殿を「空」にしておきたいと思ったのである。
神殿(=神の家=魂)のように魂を空っぽにするところに
神は訪れて来る。風は空のところにしか吹かない。
人間は自分の「魂」を、いろんなもので一杯にしている。
あるいは、一杯にすることで自分は満たされていると信
じている。(若松)
しかし、私たちが魂を空にしていけば、いくほど、神は
その空白を満たしてくださるのである。空っぽの場所に
こそ人間を超えた聖なるものが入り込む余地がある。(小友)
5:14 人は裸で母の胎を出たように、裸で帰る。
来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ
持っていくわけではない。
5:15 これもまた、大いに不幸なことだ。
来たときと同じように行かざるを得ない。風を追って
労苦して、何になろうか。
1:14 私は太陽の下に起こることはすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
1:15 ゆがみは直らず、欠けていれば数えられない。
「追う」=レウート(養う、抱く)~風を養う、風を抱くといった
意味になる。
「ルーアハ」=風、息、霊といったような多層的な意味があ
る(as like へベル)~息=神の息⇒人間の創造
コヘレトは、紀元前2世紀頃のヘレニズム時代に生まれた
ので、ギリシャ文化+オリエント文化(仏教的)を背景として
いる。
cf. 『エックハルト説教集』
イエスが神殿から商人(何らかの見返りを求めて、祈った
り善行を積む人)を追い出したのは、(どのような雑念を
も捨てて)神殿を「空」にしておきたいと思ったのである。
神殿(=神の家=魂)のように魂を空っぽにするところに
神は訪れて来る。風は空のところにしか吹かない。
人間は自分の「魂」を、いろんなもので一杯にしている。
あるいは、一杯にすることで自分は満たされていると信
じている。(若松)
しかし、私たちが魂を空にしていけば、いくほど、神は
その空白を満たしてくださるのである。空っぽの場所に
こそ人間を超えた聖なるものが入り込む余地がある。(小友)
5:14 人は裸で母の胎を出たように、裸で帰る。
来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ
持っていくわけではない。
5:15 これもまた、大いに不幸なことだ。
来たときと同じように行かざるを得ない。風を追って
労苦して、何になろうか。
コヘレトの言葉#4 ― 2022/06/07 09:14
>幸福論
「自分にとっての幸福とは何か?」を確かめる。(若松)
~目に見えるもの、数字で数えられるものは究極の目的
ではない!
⇒語り得ないことは、存在しないということではない!
「一人より二人のほうが幸せ」・・・ともに生きること(共生)
の大切さ
⇒イエス・キリストは、常に私たちと共に居る!
コロナ危機の下、離れている人と共に、「祈り」よって繋がる
~孤独ではない・・・(反転)・・・今、生かされている「時」
(へベル)に気づく⇒希望
→物理的に横にいる(近くにいる)存在とは違う視点から、
「つながり」について真剣に考えると、離れた人との共同
体が見えてくる。
遠くにいるけれども確かに繋がっている、遠くにいるか
らこそその人のことを強く思う、等。
物理的に集まることは出来ないけれども、「つながる」こと
はできる。そのような「つながり」を現代的なテーマとして
捉える。(小友)
→「祈り」によって繋がる(not through NET)
旧約聖書には、神は人間の呻きを聞き逃さないという文言
が一度ならず出て来る。その呻きは、神の耳には祈りとし
て届くということ。
『コヘレトの言葉』=「祈り」の書(若松)
4:7 私は再び太陽の下、空である様を目にした。
4:8 ・・・ 「誰のために私は労苦し、私自身の幸せを失わな
ければならないのか」・・・
4:9 一人より二人のほうがよい。・・・
4:12 たとえ一人が襲われても・・・三編みの糸は・・・切れ
ない。
>「たやすく切れない三編みの糸」=共同体の形成(共生)
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
月日がたってから、それを見出すだろう。
11:2 七人と八人とすら、分かち合っておけ、
国にどのような災いが起こるか分かったものでは
ない。
表層的な豊かさ~競争 vs. 真の豊かさ~連帯(「分かち
合っておけ」)
ルカ6:20-21
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のもの
である。今飢えている人々は、幸いである、あなた方は
満たされる。・・・
ルカ6:24-25
しかし、富んでいるあなた方は、不幸である、
あなた方はもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなた方は、不幸である、
あなた方は飢えるようになる。
「自分にとっての幸福とは何か?」を確かめる。(若松)
~目に見えるもの、数字で数えられるものは究極の目的
ではない!
⇒語り得ないことは、存在しないということではない!
「一人より二人のほうが幸せ」・・・ともに生きること(共生)
の大切さ
⇒イエス・キリストは、常に私たちと共に居る!
コロナ危機の下、離れている人と共に、「祈り」よって繋がる
~孤独ではない・・・(反転)・・・今、生かされている「時」
(へベル)に気づく⇒希望
→物理的に横にいる(近くにいる)存在とは違う視点から、
「つながり」について真剣に考えると、離れた人との共同
体が見えてくる。
遠くにいるけれども確かに繋がっている、遠くにいるか
らこそその人のことを強く思う、等。
物理的に集まることは出来ないけれども、「つながる」こと
はできる。そのような「つながり」を現代的なテーマとして
捉える。(小友)
→「祈り」によって繋がる(not through NET)
旧約聖書には、神は人間の呻きを聞き逃さないという文言
が一度ならず出て来る。その呻きは、神の耳には祈りとし
て届くということ。
『コヘレトの言葉』=「祈り」の書(若松)
4:7 私は再び太陽の下、空である様を目にした。
4:8 ・・・ 「誰のために私は労苦し、私自身の幸せを失わな
ければならないのか」・・・
4:9 一人より二人のほうがよい。・・・
4:12 たとえ一人が襲われても・・・三編みの糸は・・・切れ
ない。
>「たやすく切れない三編みの糸」=共同体の形成(共生)
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
月日がたってから、それを見出すだろう。
11:2 七人と八人とすら、分かち合っておけ、
国にどのような災いが起こるか分かったものでは
ない。
表層的な豊かさ~競争 vs. 真の豊かさ~連帯(「分かち
合っておけ」)
ルカ6:20-21
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のもの
である。今飢えている人々は、幸いである、あなた方は
満たされる。・・・
ルカ6:24-25
しかし、富んでいるあなた方は、不幸である、
あなた方はもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなた方は、不幸である、
あなた方は飢えるようになる。
コヘレトの言葉#5 ― 2022/06/08 07:17
>希望
一人ではない
~「へベル」でも生きて行く・・反転・・希望が見えて来る
⇔共生
人は、事態が反転することを予想しづらい。「あたま」だけ
で考えてしまえば、時として簡単に絶望という方向へ行って
しまいそうになる。けれども、コヘレトは何度も、私たちの
生とはむしろ「反転」することが本性なんだと語っている。
(若松)
その反転の契機になるのが「ヘベル」なんです。人生が束の
間であるということに気がついた時、私たちの向かう方向は
反転します。「今、この時をどう生きるか」という方向に向か
う。・・・人生は「ヘベル」でも、今、この「時」を自分は生かさ
れていることに気付かされる。
このことに気がつく時に、自分の命は神から与えられた賜物
だと気づかされる。(小友)
9:4 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
9:5 生きているものは、少なくとも知っている
自分はやがて死ぬ、ということを
しかし、死者はもう何ひとつ知らない。
彼らはもう報いを受けることもなく、
彼らの名は忘れられる。
9:6 その愛も憎しみも、情熱も既に消え失せ
太陽の下に起こることのどれひとつにも、
もう何のかかわりもない。
9:7 さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れてくださる。
「獅子」=尊敬されるもの~我々は獅子として生きて行くこと
を期待されている
→けれども、神の前では犬(侮蔑の対象)だ!
~「死者は・・・知らない」・・反転・・「さあ、喜んで・・・」
→日常茶飯事を喜べ!
→生きてさえいれば、たとえそれが犬であろうと、とても素晴
らしいこと
「犬」であるとは、人は自分の力だけでは生きていくことが難
しい存在であるということ
~誰もが大きな力に守られている(小友)
限られた時間だからこそ、今のこの「時」を楽しめ~希望
その人に与えられた小さな光、小さな喜びが、大きな意味
を持っていることを教える。
~「如何に生かされているのかを発見して行くことの重み」
~生きるとは、自分の知らないところで誰かが支えてくれて
いることに気付いていくこと(若松)
一人ではない
~「へベル」でも生きて行く・・反転・・希望が見えて来る
⇔共生
人は、事態が反転することを予想しづらい。「あたま」だけ
で考えてしまえば、時として簡単に絶望という方向へ行って
しまいそうになる。けれども、コヘレトは何度も、私たちの
生とはむしろ「反転」することが本性なんだと語っている。
(若松)
その反転の契機になるのが「ヘベル」なんです。人生が束の
間であるということに気がついた時、私たちの向かう方向は
反転します。「今、この時をどう生きるか」という方向に向か
う。・・・人生は「ヘベル」でも、今、この「時」を自分は生かさ
れていることに気付かされる。
このことに気がつく時に、自分の命は神から与えられた賜物
だと気づかされる。(小友)
9:4 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
9:5 生きているものは、少なくとも知っている
自分はやがて死ぬ、ということを
しかし、死者はもう何ひとつ知らない。
彼らはもう報いを受けることもなく、
彼らの名は忘れられる。
9:6 その愛も憎しみも、情熱も既に消え失せ
太陽の下に起こることのどれひとつにも、
もう何のかかわりもない。
9:7 さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れてくださる。
「獅子」=尊敬されるもの~我々は獅子として生きて行くこと
を期待されている
→けれども、神の前では犬(侮蔑の対象)だ!
~「死者は・・・知らない」・・反転・・「さあ、喜んで・・・」
→日常茶飯事を喜べ!
→生きてさえいれば、たとえそれが犬であろうと、とても素晴
らしいこと
「犬」であるとは、人は自分の力だけでは生きていくことが難
しい存在であるということ
~誰もが大きな力に守られている(小友)
限られた時間だからこそ、今のこの「時」を楽しめ~希望
その人に与えられた小さな光、小さな喜びが、大きな意味
を持っていることを教える。
~「如何に生かされているのかを発見して行くことの重み」
~生きるとは、自分の知らないところで誰かが支えてくれて
いることに気付いていくこと(若松)
コヘレトの言葉#6 ― 2022/06/09 07:24
>「束の間」=「永遠」
あらゆる出来事は「束の間」に起こる。しかし、その束の間
の中には、”過ぎ行かない出来事”がある。
「束の間」であるということと、「永遠」であるということは矛
盾しない。むしろ、その矛盾しないことが私たちの人生その
ものなんだ、と教えてくれている。
9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
愛する者と共に楽しく生きるがよい。
それが太陽の下で労苦するあなたへの人生と
労苦の報いなのだ。
>「報い」=「へレク」(分、賜物、嗣業)
へレクとは、神から与えられた賜物ことを指す。つまり、
喜んでパンを食べ、ぶどう酒を飲む
「束の間」も、妻と共に歩む「束の間」の人生も、あなたの
人生は神から受ける賜物なんだという意味。(小友)
11:8 長生きをし、喜びに満ちている時にも、
暗い日々も多くあろうことを忘れないように。
何が来ようとすべて空しい。
この一節は、現代では70代に入って、残りの人生が十数年
しかない人に向けた言葉
~人生の後半に入ると、その人がその人である本当の意
味を探究せざるを得なくなる。(若松)
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。
ここまで、「ヘベル」について深めていく中で、「ヘベル」の
意味が反転して論理について考察して来た。可能性が狭
まっていく「ヘベル」の中でこそ、本当に確かなものを見出
していけるのではないか。
人は生かされていると感じる時、最も近くに感じるのは、
大切な人、亡き人、そして誠です。
そのことが確かに感じられたのです。(若松)
コヘレトの言葉#7 ― 2022/06/10 07:31
> 「時の詩」([3:1-8])
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められ
た時がある。
生まれる時、死ぬ時
・・・・・・
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
・・・・・・
求める時、失う時
保つ時、放つ時
・・・・・・
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時
「これが人生だ」と語っているコヘレトの眼差しの優しさ
は、人生において経験する現実すべてを網羅している
ためで、この詩の背景には、戦争という現実の悲惨さ
がある。(小友)
3:10 私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべて時宜にかなうように造り、
また永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで
見極めることは許されていない。
3:14 わたしは知った
すべて神の業は永遠に不変であり、
付け加えることも除くことも許されないと。
神は人間が畏れ敬うように定められた。
3:15 今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。
>神はすべての「時」を与えたけれども、その一方で、
それを見極めることはできないとも言っている。
「時」を人間は掴むことができないという、その「時」の
真理が「矛盾」を現す。
自分で自分の人生が分かったような気になる「絶望の
時」に「生きよ」というのは、人生には永遠なる未知の
部分があるからだ。(若松)
更に、永遠を感じていなくても、「永遠」は私たちを包ん
でいる。だから、神の支配に身を委ねて「安心して苦し
め!」 (小友)
「時」(「カイロス」瞬間;質的時間)は、「クロノス」(過ぎ
去る時間;量的時間)ではない!
一瞬であり永遠でもある(「神の時」)。
cf. 存(時間においてあるもの)在(空間においてある
もの)~我々は「在」でのみ生きている。
クロノス的出来事は深化し昇華して、カイロス的経験で
あったことを、後で知ることとなる。
日常の些細な会話であったものが、カイロス的深まりを
得ると、――10年前に死んだ伴侶が「永遠の思い出」と
して甦る。時を経れば経るほど、過去の意味が分かっ
て来ることを教えてくれている。
クロノス的な日常に日々に「カイロス」(神が与えられた
時)が潜んでいる。その「カイロス」を発見できるか否か
が、人生を大きく変えていく。(若松)
7:15 この苦しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。
善人がその善ゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められ
た時がある。
生まれる時、死ぬ時
・・・・・・
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
・・・・・・
求める時、失う時
保つ時、放つ時
・・・・・・
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時
「これが人生だ」と語っているコヘレトの眼差しの優しさ
は、人生において経験する現実すべてを網羅している
ためで、この詩の背景には、戦争という現実の悲惨さ
がある。(小友)
3:10 私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべて時宜にかなうように造り、
また永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで
見極めることは許されていない。
3:14 わたしは知った
すべて神の業は永遠に不変であり、
付け加えることも除くことも許されないと。
神は人間が畏れ敬うように定められた。
3:15 今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。
>神はすべての「時」を与えたけれども、その一方で、
それを見極めることはできないとも言っている。
「時」を人間は掴むことができないという、その「時」の
真理が「矛盾」を現す。
自分で自分の人生が分かったような気になる「絶望の
時」に「生きよ」というのは、人生には永遠なる未知の
部分があるからだ。(若松)
更に、永遠を感じていなくても、「永遠」は私たちを包ん
でいる。だから、神の支配に身を委ねて「安心して苦し
め!」 (小友)
「時」(「カイロス」瞬間;質的時間)は、「クロノス」(過ぎ
去る時間;量的時間)ではない!
一瞬であり永遠でもある(「神の時」)。
cf. 存(時間においてあるもの)在(空間においてある
もの)~我々は「在」でのみ生きている。
クロノス的出来事は深化し昇華して、カイロス的経験で
あったことを、後で知ることとなる。
日常の些細な会話であったものが、カイロス的深まりを
得ると、――10年前に死んだ伴侶が「永遠の思い出」と
して甦る。時を経れば経るほど、過去の意味が分かっ
て来ることを教えてくれている。
クロノス的な日常に日々に「カイロス」(神が与えられた
時)が潜んでいる。その「カイロス」を発見できるか否か
が、人生を大きく変えていく。(若松)
7:15 この苦しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。
善人がその善ゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
コヘレトの言葉#8 ― 2022/06/11 07:48
>考えられていない「人生の半分」
「すべての者は一つの場所(=死)に行くのだから」
コヘレトは一貫して死を見つめて、そこから次のことを
考える
~「ヘベル」でも、死から逆算した時間、つまり残された
時間のことを指して言っている。
そして、その「ヘベル」をどう生きるのか、と話が繋がっ
ていく。
「生まれるに時があり、死ぬに時がある」
~私たちは、神の「時」の中で生かされているのですか
ら、「死」も神が与えた「時」なのである。
人生の終わりに、すべてを神にお返しする。(小友)
「如何に生きるのか」については頻繁に考えても、
「死とは何か?」についてはどうであろうか。
私たちは今、一瞬一瞬を生きつつあり、それは毎瞬毎瞬、
死に近づいていることでもある。
生きつつあると同時に、死につつある。
6:3 しかし、長生きをしながら、財産に満足もせず
死んで葬儀もしてもらえなかったら
流産のこの方が好運だと私は言おう。
6:4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り
その名は闇に隠される。
6:5 太陽の光を見ることも知ることもない。
しかし、その子のほうが安らかだ。
6:6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、
幸福でなかったら、何になろう。
すべてのものは同じ一つの所に行くのだから。
人生とは「死」があるから、意味がある!
永遠に生きることができれば、「生」の意味は消失して
しまう。(小友)
「明日の朝を待ちわびる」(鈴木大拙『禅の第一義』)
とは、人の心の中には永遠に明けないような 闇があり
・・・人は光の中でも神に出会うけれども、闇の中におい
ても出会う。闇においてこそとも言える。また、否定的だ
と思われた経験や出来事にも、とても大事なものを見出
すことができる。
大切なのは、悲しみや苦しみの出来事を避けるのでは
なく、深めてみることなのである!(若松)
~否定がひっくり返って肯定に変わる。(小友)
「すべての者は一つの場所(=死)に行くのだから」
コヘレトは一貫して死を見つめて、そこから次のことを
考える
~「ヘベル」でも、死から逆算した時間、つまり残された
時間のことを指して言っている。
そして、その「ヘベル」をどう生きるのか、と話が繋がっ
ていく。
「生まれるに時があり、死ぬに時がある」
~私たちは、神の「時」の中で生かされているのですか
ら、「死」も神が与えた「時」なのである。
人生の終わりに、すべてを神にお返しする。(小友)
「如何に生きるのか」については頻繁に考えても、
「死とは何か?」についてはどうであろうか。
私たちは今、一瞬一瞬を生きつつあり、それは毎瞬毎瞬、
死に近づいていることでもある。
生きつつあると同時に、死につつある。
6:3 しかし、長生きをしながら、財産に満足もせず
死んで葬儀もしてもらえなかったら
流産のこの方が好運だと私は言おう。
6:4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り
その名は闇に隠される。
6:5 太陽の光を見ることも知ることもない。
しかし、その子のほうが安らかだ。
6:6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、
幸福でなかったら、何になろう。
すべてのものは同じ一つの所に行くのだから。
人生とは「死」があるから、意味がある!
永遠に生きることができれば、「生」の意味は消失して
しまう。(小友)
「明日の朝を待ちわびる」(鈴木大拙『禅の第一義』)
とは、人の心の中には永遠に明けないような 闇があり
・・・人は光の中でも神に出会うけれども、闇の中におい
ても出会う。闇においてこそとも言える。また、否定的だ
と思われた経験や出来事にも、とても大事なものを見出
すことができる。
大切なのは、悲しみや苦しみの出来事を避けるのでは
なく、深めてみることなのである!(若松)
~否定がひっくり返って肯定に変わる。(小友)
最近のコメント