コヘレトの言葉#12022/06/04 08:48

from 『すべてには時がある』(NHKこころの時代)
「コヘレトの言葉」をめぐる対話 若松英輔vs.小友聡


 ※(ガブリエル・マルセル『道程』)
  「私の哲学作品は大陸だ(創世記、預言書、etc.)。
  演劇は島々(コヘレトの言葉)だ。
  だがね、親しい友よ――秘密は島々にあるのだよ」
 
>今日という時代は、それまでは見ないで、あるいは考えない
 で過ごしていけると思っていたものが、無視できなくなった危
 機のとき・・・だから<言葉の杖>が必要(若松)

 「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな」
 これは、諦めずに「それでも生きよ」というコヘレトの呼びかけ。
 現代では、「成功」こそが価値だと言われます。しかし、挫折
 や苦しみといった、「失敗」に分類されてきたものにこそ価値
 があるとコヘレトは言う。(小友)


 『コヘレトの言葉』は「知恵文学」とも呼ばれ、これはイスラエル
 の知恵について書いてある文学書ということです。イスラエル
 の知恵とは、世界の法則、または秩序を探究した結果に見出
 した知恵のことです。そのような知恵から、この世をどう生きる
 かということを考えている一連の書が知恵文学です。
 このような知恵文学の中でも、『コヘレトの言葉』は新しい知恵
 を模索している。それは、世界が見通せなくなってしまった中
 でも生きて行くための新しい知恵です。(小友)

 イエス・キリストの時代、聖書というのは旧約聖書しかありま
 せん。新約聖書の中に「聖書」という言葉あれば。それらは
 すべて旧約聖書のことを指している。(小友)

 ※聖書の始まりは「捕囚」体験;
  BC587 エルサレム神殿崩壊~イスラエル王国滅亡

 神の民はすべてを失ってしまい、捕囚の地に連行される。
 神が何を自分たちに期待しているのか、ということを含め
 て、自分たちの民族の歴史を書き残そうとした。創世記の
 「混沌としている」世界こそが、すべてを失った捕囚の民の
 現実を証言している。 「光あれ」といわれる、ここに正に
 捕囚の民が経験したことが表現されている。

 旧約聖書の言う「知恵」は、神(=内なる「いのち」)との繋が
 りの中で明らかになっていくものだと思います。「いのち」は
 私たちを生かしているハタラキそのもの!知恵は「いのち」
 によって齎されるもの!私たちが知恵と出会うのは、真の
 意味での人生の経験をするときです。

 知恵は私たちを日常生活の中にもう一度呼び戻す。その
 現場はここだということを教えてくれる気がするのです。そ
 して、「コヘレトの言葉」は大切なものはそのような日常生
 活の些細な処に隠れていると示唆してくれる。

コヘレトの言葉#22022/06/05 08:58

>「空」、人生の儚さを知る

 「人生は虚しいからこそ生きる意味がある」
 コヘレトは逆説を語っている。これが『コヘレト』の
 読み方(小友)

 「悲しむ人は幸いである」マタイ5:4

 「闇は私たちに光を準備している」(若松)
 聖典は、それを信じる者たちによって読み解かれる書
 物である。私たちに、「知る」ことを手放し「信じる」ことを
 求めてくる書物です。「信じる」とは、人間を超えた存在
 に自分を聞いていこうとする試み・・・(若松)

 「空の空」

 1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべて
  は空しい。
 1:3 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。
 1:4 一代が過ぎ、また一代が興る。地はとこしえに変わらない。

 1:5 日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。
 1:6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ
    巡りつつ、吹き続ける。
 1:7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
    どの川も、繰り返しその道程を流れる。 
 1:8 何もかも、もの憂い。
    語り尽くすことも出来ず
    目は見飽きることなく
    耳は聞いても満たされない。
 1:9 かつてあったことは、これからもあり
    かつて起こったことは、これからも起こる。
    太陽の下、新しいものは何もない。

>「空」=へベル=束の間(小友)
  
 (意味の広がり)=無意味、無益、不条理、無、etc.
 ~ 「空」⇒実在 as like 「無常」⇒「永遠」 in 『方丈記』

 「空」は仏教専有の言葉ではなく、宗教に偏在している
 とても大事な「不可視の実在」
  空こそ実在で、あらゆる「有」の源(若松)

 9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、
    愛する妻と共に楽しく生きるのがよい。
    それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦
    の報いなのだ。

 出来事は常に「束の間」である。だから、「空しい」からこ
 そ生きようと反転するのが「コヘレトの言葉」を読む時の
 ポイント(小友)
 ~「報い」とは、今生きていることが神からの「賜物」
 ~生かされている以上、安心して生きろ!

 「あなたの知らないところで、誰かがあなたを支えている」

コヘレトの言葉#32022/06/06 09:08

>「風」=ルーアハ(息)

 1:14 私は太陽の下に起こることはすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
1:15 ゆがみは直らず、欠けていれば数えられない。

 「追う」=レウート(養う、抱く)~風を養う、風を抱くといった
 意味になる。

 「ルーアハ」=風、息、霊といったような多層的な意味があ
 る(as like へベル)~息=神の息⇒人間の創造

 コヘレトは、紀元前2世紀頃のヘレニズム時代に生まれた
 ので、ギリシャ文化+オリエント文化(仏教的)を背景として
 いる。

cf. 『エックハルト説教集』
  イエスが神殿から商人(何らかの見返りを求めて、祈った
  り善行を積む人)を追い出したのは、(どのような雑念を
  も捨てて)神殿を「空」にしておきたいと思ったのである。
  神殿(=神の家=魂)のように魂を空っぽにするところに
  神は訪れて来る。風は空のところにしか吹かない。
 
 人間は自分の「魂」を、いろんなもので一杯にしている。
 あるいは、一杯にすることで自分は満たされていると信
 じている。(若松)
 しかし、私たちが魂を空にしていけば、いくほど、神は
 その空白を満たしてくださるのである。空っぽの場所に
 こそ人間を超えた聖なるものが入り込む余地がある。(小友)

 5:14 人は裸で母の胎を出たように、裸で帰る。
   来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ
持っていくわけではない。

 5:15 これもまた、大いに不幸なことだ。
   来たときと同じように行かざるを得ない。風を追って
   労苦して、何になろうか。

コヘレトの言葉#42022/06/07 09:14

>幸福論

 「自分にとっての幸福とは何か?」を確かめる。(若松)
 ~目に見えるもの、数字で数えられるものは究極の目的
   ではない!
 ⇒語り得ないことは、存在しないということではない!

 「一人より二人のほうが幸せ」・・・ともに生きること(共生)
 の大切さ
 ⇒イエス・キリストは、常に私たちと共に居る!

 コロナ危機の下、離れている人と共に、「祈り」よって繋がる
 ~孤独ではない・・・(反転)・・・今、生かされている「時」
  (へベル)に気づく⇒希望

 →物理的に横にいる(近くにいる)存在とは違う視点から、
  「つながり」について真剣に考えると、離れた人との共同
  体が見えてくる。
  遠くにいるけれども確かに繋がっている、遠くにいるか
  らこそその人のことを強く思う、等。

 物理的に集まることは出来ないけれども、「つながる」こと
 はできる。そのような「つながり」を現代的なテーマとして
 捉える。(小友)

 →「祈り」によって繋がる(not through NET)
 旧約聖書には、神は人間の呻きを聞き逃さないという文言
 が一度ならず出て来る。その呻きは、神の耳には祈りとし
 て届くということ。
 『コヘレトの言葉』=「祈り」の書(若松)

 4:7 私は再び太陽の下、空である様を目にした。
4:8 ・・・ 「誰のために私は労苦し、私自身の幸せを失わな
ければならないのか」・・・
 4:9 一人より二人のほうがよい。・・・
 4:12 たとえ一人が襲われても・・・三編みの糸は・・・切れ
ない。

>「たやすく切れない三編みの糸」=共同体の形成(共生)

 11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
   月日がたってから、それを見出すだろう。
 11:2 七人と八人とすら、分かち合っておけ、
   国にどのような災いが起こるか分かったものでは
     ない。

 表層的な豊かさ~競争 vs. 真の豊かさ~連帯(「分かち
 合っておけ」)

 ルカ6:20-21
  貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のもの
  である。今飢えている人々は、幸いである、あなた方は
  満たされる。・・・
ルカ6:24-25
  しかし、富んでいるあなた方は、不幸である、
  あなた方はもう慰めを受けている。
  今満腹している人々、あなた方は、不幸である、
  あなた方は飢えるようになる。

コヘレトの言葉#52022/06/08 07:17

>希望

 一人ではない
 ~「へベル」でも生きて行く・・反転・・希望が見えて来る
 ⇔共生

 人は、事態が反転することを予想しづらい。「あたま」だけ
 で考えてしまえば、時として簡単に絶望という方向へ行って
 しまいそうになる。けれども、コヘレトは何度も、私たちの
 生とはむしろ「反転」することが本性なんだと語っている。
 (若松)

 その反転の契機になるのが「ヘベル」なんです。人生が束の
 間であるということに気がついた時、私たちの向かう方向は
 反転します。「今、この時をどう生きるか」という方向に向か
 う。・・・人生は「ヘベル」でも、今、この「時」を自分は生かさ
 れていることに気付かされる。
 このことに気がつく時に、自分の命は神から与えられた賜物
 だと気づかされる。(小友)

9:4 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
9:5 生きているものは、少なくとも知っている
   自分はやがて死ぬ、ということを
   しかし、死者はもう何ひとつ知らない。
   彼らはもう報いを受けることもなく、
彼らの名は忘れられる。
 9:6 その愛も憎しみも、情熱も既に消え失せ
   太陽の下に起こることのどれひとつにも、
もう何のかかわりもない。
 9:7 さあ、喜んであなたのパンを食べ
   気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
   あなたの業を神は受け入れてくださる。


 「獅子」=尊敬されるもの~我々は獅子として生きて行くこと
 を期待されている
 →けれども、神の前では犬(侮蔑の対象)だ!
 ~「死者は・・・知らない」・・反転・・「さあ、喜んで・・・」
 →日常茶飯事を喜べ!
 →生きてさえいれば、たとえそれが犬であろうと、とても素晴
   らしいこと

 「犬」であるとは、人は自分の力だけでは生きていくことが難
 しい存在であるということ
 ~誰もが大きな力に守られている(小友)

 限られた時間だからこそ、今のこの「時」を楽しめ~希望
 その人に与えられた小さな光、小さな喜びが、大きな意味
 を持っていることを教える。
 ~「如何に生かされているのかを発見して行くことの重み」
 ~生きるとは、自分の知らないところで誰かが支えてくれて
  いることに気付いていくこと(若松)

コヘレトの言葉#62022/06/09 07:24


>「束の間」=「永遠」

 あらゆる出来事は「束の間」に起こる。しかし、その束の間
 の中には、”過ぎ行かない出来事”がある。
 「束の間」であるということと、「永遠」であるということは矛
 盾しない。むしろ、その矛盾しないことが私たちの人生その
 ものなんだ、と教えてくれている。

9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
   愛する者と共に楽しく生きるがよい。
   それが太陽の下で労苦するあなたへの人生と
労苦の報いなのだ。


>「報い」=「へレク」(分、賜物、嗣業)
 
 へレクとは、神から与えられた賜物ことを指す。つまり、
 喜んでパンを食べ、ぶどう酒を飲む
 「束の間」も、妻と共に歩む「束の間」の人生も、あなたの
 人生は神から受ける賜物なんだという意味。(小友)

11:8 長生きをし、喜びに満ちている時にも、
   暗い日々も多くあろうことを忘れないように。
   何が来ようとすべて空しい。

 この一節は、現代では70代に入って、残りの人生が十数年
 しかない人に向けた言葉
 ~人生の後半に入ると、その人がその人である本当の意
味を探究せざるを得なくなる。(若松)

11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
   青年時代を楽しく過ごせ。
   心にかなう道を、目に映るところに従って行け。


 ここまで、「ヘベル」について深めていく中で、「ヘベル」の
 意味が反転して論理について考察して来た。可能性が狭
 まっていく「ヘベル」の中でこそ、本当に確かなものを見出
 していけるのではないか。
 人は生かされていると感じる時、最も近くに感じるのは、
 大切な人、亡き人、そして誠です。
 そのことが確かに感じられたのです。(若松)

コヘレトの言葉#72022/06/10 07:31

> 「時の詩」([3:1-8])

  何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められ
  た時がある。

生まれる時、死ぬ時  
  ・・・・・・
  泣く時、笑う時
  嘆く時、踊る時
・・・・・・
  求める時、失う時
  保つ時、放つ時
・・・・・・ 
黙する時、語る時
  愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時

 「これが人生だ」と語っているコヘレトの眼差しの優しさ
 は、人生において経験する現実すべてを網羅している
 ためで、この詩の背景には、戦争という現実の悲惨さ
 がある。(小友)


3:10 私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。

3:11 神はすべて時宜にかなうように造り、
    また永遠を思う心を人に与えられる。
    それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで
    見極めることは許されていない。

3:14 わたしは知った
   すべて神の業は永遠に不変であり、
   付け加えることも除くことも許されないと。
   神は人間が畏れ敬うように定められた。
3:15 今あることは既にあったこと
   これからあることも既にあったこと。

>神はすべての「時」を与えたけれども、その一方で、
 それを見極めることはできないとも言っている。
 「時」を人間は掴むことができないという、その「時」の
 真理が「矛盾」を現す。
 自分で自分の人生が分かったような気になる「絶望の
時」に「生きよ」というのは、人生には永遠なる未知の
部分があるからだ。(若松)
 更に、永遠を感じていなくても、「永遠」は私たちを包ん
でいる。だから、神の支配に身を委ねて「安心して苦し
め!」 (小友)

 「時」(「カイロス」瞬間;質的時間)は、「クロノス」(過ぎ
去る時間;量的時間)ではない!
 一瞬であり永遠でもある(「神の時」)。
  cf. 存(時間においてあるもの)在(空間においてある
もの)~我々は「在」でのみ生きている。

 クロノス的出来事は深化し昇華して、カイロス的経験で
 あったことを、後で知ることとなる。
 日常の些細な会話であったものが、カイロス的深まりを
 得ると、――10年前に死んだ伴侶が「永遠の思い出」と
 して甦る。時を経れば経るほど、過去の意味が分かっ
 て来ることを教えてくれている。
 クロノス的な日常に日々に「カイロス」(神が与えられた
 時)が潜んでいる。その「カイロス」を発見できるか否か
 が、人生を大きく変えていく。(若松) 


7:15 この苦しい人生の日々に
    わたしはすべてを見極めた。
   善人がその善ゆえに滅びることもあり
   悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

コヘレトの言葉#82022/06/11 07:48

>考えられていない「人生の半分」

 「すべての者は一つの場所(=死)に行くのだから」
 コヘレトは一貫して死を見つめて、そこから次のことを
考える 
 ~「ヘベル」でも、死から逆算した時間、つまり残された
時間のことを指して言っている。
  そして、その「ヘベル」をどう生きるのか、と話が繋がっ
ていく。

  「生まれるに時があり、死ぬに時がある」
 ~私たちは、神の「時」の中で生かされているのですか
ら、「死」も神が与えた「時」なのである。
  人生の終わりに、すべてを神にお返しする。(小友)

 「如何に生きるのか」については頻繁に考えても、
 「死とは何か?」についてはどうであろうか。
 私たちは今、一瞬一瞬を生きつつあり、それは毎瞬毎瞬、
 死に近づいていることでもある。
 生きつつあると同時に、死につつある。

6:3 しかし、長生きをしながら、財産に満足もせず
   死んで葬儀もしてもらえなかったら
   流産のこの方が好運だと私は言おう。

6:4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り
   その名は闇に隠される。

6:5 太陽の光を見ることも知ることもない。
   しかし、その子のほうが安らかだ。

6:6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、
   幸福でなかったら、何になろう。
   すべてのものは同じ一つの所に行くのだから。


 人生とは「死」があるから、意味がある!
 永遠に生きることができれば、「生」の意味は消失して
 しまう。(小友)

 「明日の朝を待ちわびる」(鈴木大拙『禅の第一義』)
 とは、人の心の中には永遠に明けないような 闇があり
 ・・・人は光の中でも神に出会うけれども、闇の中におい
 ても出会う。闇においてこそとも言える。また、否定的だ
 と思われた経験や出来事にも、とても大事なものを見出
 すことができる。

 大切なのは、悲しみや苦しみの出来事を避けるのでは
 なく、深めてみることなのである!(若松)
 ~否定がひっくり返って肯定に変わる。(小友)