御成街道1997/10/01 07:28

東金御成街道(船橋~東金)沿いに千葉御茶屋御殿の遺構が
ある。

鷹狩りを趣味とした家康が東金での狩を言い出したのは慶長
18年12月6日であった(本保弘文『東金御成街道』)。この日を
はさんでの数日間の動きを追ってみる。
同月3日、家康、駿府帰城のため江戸出発。
同月6日、平塚の中原御殿にて、馬場忠時の密訴を受ける。
同月12日、土井利勝と密談。
同月13日、来年正月、東金で鷹狩すると江戸帰城。

鷹狩を準備すべく街道の造成と同時に、御茶屋御殿と東金
御殿の建設も行われた。御成街道は一夜街道とも称せられ
る突貫工事であった、と今に語り継がれている。お茶屋御殿
に関しても、急拵えが濃厚である。造営記録は未発見である
ものの、発掘調査により、建設用材が佐倉城築城に用意され
ていたものを転用したことが窺われるからである。

慶長19年1月7日から、家康は下総で鷹狩。
同月18日、江戸帰城。
江戸を主戦場に想定したシミュレーションでも行なったので
あろうか。
同月19日、小田原城主大久保忠燐改易。
同月29日、駿府へ帰城。
そして9月に里見忠義、伯耆へ国替え。
11月、大阪冬の陣、と年表は記す。

400年前の2箇月程、歴史はこの道(御成街道)を往き来し
ていた。

当時、江戸と駿府の二元構造であった徳川支配の体制は
権力闘争を惹起した。本多親子(+土井利勝)と大久保忠燐
との対立である。これに里見が巻き込まれた所以は、忠燐
の孫娘(家康の曾孫)を室に迎え入れていたからである。想
えば、鎌倉への執着ゆえに、大勢を見誤り、小田原参陣が
遅れたことを秀吉に取りなしたのは家康であった。それが、
今や、大名への処遇とは程遠い扱いでの所払いとなった。

しかし、経済の大動脈が舟運であった時代に、江戸への航
路の喉元に外様大名を置いておける訳はなかった。江戸
入府後、直ちに利根川の流露変更に取り掛かり、60年をか
けて完成させたことで明らかであろう。これで、銚子からも
舟が入れるようになったのである。

一方、忠義は倉吉(伯耆)に流された後も、田中村、堀村と
追いやられ、29歳で没した。また、船橋、千葉(御茶屋)、東
金の3御殿は家光の頃に取り壊された。そして、「道」も、
宅地開発や輸送ルートの変更により衰退している。

ただ、鳥取県関金町堀の山郷神社はアハノ神を祀ってい
るそうである。

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