『諏訪神社 謎の古代史』2006/02/22 07:25

清川理一郎 『諏訪神社 謎の古代史』 彩流社(1995年)

文化伝播論(著者は、「波状理論」を使用)の試論として
読んだ。その波状論というのは伝播して行く過程で様々に
変化を繰り返しても、その文化の核は元のままの古い文化
として残るから、表層のベールを剥ぎ取って見ようとする
のである。

ここでは、諏訪神社の御柱祭を「巨木(神木)」の祭と捉
え、ネパールの”インドラ・ジャトラ”の柱立て祭と比較
考証を行い、紀元前2300年頃にヴォルガ下流域から南下を
開始した騎馬集団「古代インド・ゲルマン人」に行き着く。

そこで、古代インド・ゲルマン人が分岐した3方面、アナ
トリア(ヒッタイト)、インド・イラン(インド・アーリ
ア族)そしてバルカン半島以西(インド・ゲルマン族)の
宗教民俗要素を検証して、「文化の核」を抽出する。
これが波の中心部の核となり,周辺部である諏訪神社の祭
に、この核が残存しているかを調べるのである。その結果,
(イ)巨木に薙鎌を打ち込む、(ロ)神木の曳行、(ハ)
柱立ては、中心部の核そのものであり、ここに健御名方命
(諏訪神社の御祭神)は古代インド・ゲルマン人の奉祭
していた神を映していることになる。

私が、北安曇郡池田町の図書館(郷土資料室)で、諏訪
神社関連の資料に目を通していた時に、諏訪神社の発祥
に関わる原・諏訪神は「ミサクチ神」であると読んでい
た。このミサクチ神に戦勝した健御名方命が諏訪神社の
祭神となったのであるが、ミサクチ神への祭祀は神長官
守矢家により伝えられている。それを洩矢神と称してい
る。柳田国男をはじめとして、ミサクチ神と洩矢神との
重層構造に関して議論が重ねられて来ている。
ここで、重要なことは健御名方命が諏訪に来る以前に、
そこにはミサクチ神(洩矢神)がいらっしゃったのであ
り、それでは、ミサクチ神は何処から来たのかを、もう
一度波状論で解かねばならないことである。
著者はもちろんそれを試みている。

著者は、この「文化の核」を、やはり前2300年頃に発生
したセム族の移動に注目し、西アジアにおける土地神と
人格神に比定する。その発生時系列のままに二度に渡っ
て諏訪の地に及び、前者を洩矢神、後者をミサクチ神と
した重層構造と現行祭祀の関係を解き明かしている。

非常に似通ったものが中近東と日本に見られることは
事実として認められる。しかし、すべてのピースは埋
まっておらず、パズルは未完成のままである。
その謎には興味尽きないものがあり、折にふれここでも
取り上げることであろう。

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