『きもの』2006/06/18 14:55

幸田 文『きもの』

少女が結婚するまでの人生を、着物を通して語った物語。
女性にとっての着物はまさに人生そのものだ、ということがよく
分かる。

 「白一色に装ったるつ子は、雪のようにふんわりと花嫁の座にいた。
  ・・・然し、披露になるとるつ子は自分から、紅刷毛をとって頬
  にもこめかみにも、色を加えた。角かくしを取り去って、赤い疋
  田の色直しに着換えたるつ子は、引き立ってみえた。・・・
 「二人は旅行に発っていった。・・・保二は酔ったのか、お父さん
  も機嫌よかったじゃないか、と繰り返した。それがるつ子を喜ば
  せていると勘違えして、逆にるつ子をちくちく刺しているとは、
  毛ほども思い及ばなかったらしい。」

るつ子は、父親をはじめとする家族の反対を押し切るように結婚を決
意する。ここにいたる彼女を着物で描いて行く。

 「引き千切られた片袖まんなかに置かれ、祖母と母とるつ子が三角
  形にすわっていた。・・・今朝、学校へいく前に、着たままで、
  右手で左袖を力任せに千切って、屑かごへ突っ込んでおいたのが、
  早くももう見つけられ・・・
 「・・・綿入れの筒袖胴着は肩のところがはばったくて嫌なのだ、
  といっても大人たちにはそれがわからないらしく、そんなことはな
  いと不承知だった。」

母とるつ子は、相性があまりよくなく、いつもその間を取り持つのが
祖母であった。

 「母さんはね、雪国の人だもので、綿をたくさん入れちまうのさ。
  ・・・だからさ、あんなにおこられたけど、おまえ母さんに文
  句いったりしちゃいけないよ。」

るつ子は三人姉妹の末っ子でそれに兄がいる。長姉は十分な身支度で嫁に行き、着物を着換えるごとくに他家の人となった。

 「・・・それにしてもあちらのご紋のついたものを着てねえ、もう
  すっかりあちらの人になってしまった。」

次の姉の縁談は、母が長患いで伏せっているときであった。相手が
商人の息子ということで、最小限の準備で、つまりは「すべて体裁
めいたことは省いて」、その分を現金での持参と決めた。

 「いくら当人たちが式は質素にというにせよ、あまりに手軽にすぎ
  て、結婚のはなやぎも美しさもなさすぎる。・・・上の姉の半分
  もかまってやらないのはどうしたことなのか疑う。みつ子も家を
  離れていくというのに、名残惜しがらず、親もまた二人目の娘を
  手放すというのに、割に淡白にみえるのが、・・・」

それから、母の葬儀、関東大震災、とその時々の着物で語られて行く。

 「あなたその着物、どうしたの。」
 「どうって、おばあさんがこしらえてくれたのよ。」
 「・・・るつちゃんが紋服着るのに、姉のあたし(注、二番目の姉)
  がお通夜と同じ洋服っていうんじゃ、恥かくじゃないのよ。・・・」

 「その着物、うまいことねだったわね。看病のご褒美というわけ?
  あなた色白だから、紫は憎らしいほど映えるわ。でも、なぜ貼紋
  なんかにしたの、下司っぽいわ。」

母亡き後、祖母がるつ子の縁談を心配する。

 「・・・少し考えてみるのもいいと思うよ。自分がどんな気性かをね。
  たとえばだね、おまえさんはよく我慢するよ。お母さんの看病やお
  葬式にしろ、・・・我慢して、実際にやりとげてしまう。これはお
  姉さんたちではできないことだ。みんながほめている。でもあたし
  はそこが、たまらなく可哀想で、そして心配なんだがね。我慢も、
  出来るうちこそ値打があるけれど、出来ない我慢もあるものさ、そう
  なれば破裂して、悪名だけ残る。お姉さんたちははじめから我慢な
  んか嫌いな性分だから、破裂する心配はいらないやね。」

父親は家族会議で反対を表明して、次のように語る。

 「わたしは、るつ子にはそぐわない人だと、みている。それは細かく
  るつ子にも話しておいた。然し、るつ子がそれでもというなら――
  惜しいが仕方がない。もう止めようとはしないし、世間並みの仕度
  をしておくりだしてやり、仕合わせをねがうだけだ。」

物語は、着物を他人により外されるシーンで幕となる。

 「どんな言い方をされたにしても、それはまだ処女でいる妻には胸が
  さわぐ。思いもうけた刺戟、期待した刺激だった。・・・間もなく裸の
  胸が相手の裸の胸を感じ、下着のずるずるはがされる感覚を知っ
  た。自分の手でなく、人の手がはがす下着が、腰をきしっておりて
  いった。それが恙なく進行している結婚の行事であった。」