セネカ#6-12020/06/20 18:05


>手紙61:よろこんで死を迎える

 僕はこの老年になって、少年の日に望んだことを望むのを
 止めた。ただ一つの目的のために僕の日が過ぎ、僕の夜
 が過ぎて行く。これが僕の仕事、僕の思考の目標なのだ。
 昔からの僕の悪徳をして終わらしめるということが。
 そのことのために、僕は一日が全人生であるかのように
 生きようと努めている。決してそれを人生の最後の一日
 として自分にひきつけるのではない。そうではなく、それ
 が自分にとって最後の日であるかもしれぬと僕は見做す
 のだ。立ち去る心構えは既にできている。
 人生がどれだけ長く続くかということにもうあまり重きを置
 かなくなったが故に、僕は今この人生を大いに楽しんでい
 るところだ。老年に入るまで僕はよく生きることのみ心が
 けて来た。が、老年に入った今は、よく死のうとのみ努め
 ている。よく死ぬとは、しかし、喜んで死ぬということだ。
 どんな時でも決して自分の意志に反したことはしないよう
 にすると、何事でも、逆らう者にとっては強制となるが、自
 ら欲してする者には強制など存在しない。命令されて何か
 をする者が不幸なのではなくて、自分の意志に反して事を
 行う者が不幸なのだ。
 だから、我々は自分の心をこのように整えようではないか。
 自分の死のことは悲しみをもって考えないように。
 生には既に十分に恵まれて来た。なのに、我々は今なお
 貪欲に生の手段を求めている。・・・我々が十分に生きた
 かどうかを決めるのは、年でも日でもなく、心だ。僕はもう
 たくさんだというくらい十分生きた。
 今は充実した人生の後の死を待つばかりだ。

・セネカは初めに、少年時に望んだことを老年になっては望む
 べきではないと言う。少年が欲することといえば、親がその子
 に望むようなことどもで、セネカはそういう親の願い事につい
 てはかなり否定的な事を言っている。
 そのうち特に、人皆が望む長生きについては、いたずらに
 長く生きるのが良いことではない。良く生きようと努めるので
 なければ、長生きしたとして何の意味もないのだから、心を
 充実させて一日一日を生きること、今日という一日を全生涯
 と心得て生きること、そして死がいつやって来ても喜んでそれ
 を迎え入れること、よく死ぬことこそ老年の尊い使命だ、と言
 うのだ。