ハツォール1997/01/11 13:24

『ハツォール』(山本書店)

原題:Yadin, HAZOR; The Rediscovery of a Great Citadel
of the Bible, 1974.

1.なぜハツォールを選んだか?

ハツォールが士師に先立つ何世代も前のヨシュア時代にすでに
滅ぼされ、ヤビンは殺されていたとするならば、この町と王があら
ためて後の時代のこの戦いに、姿を現すということがどうして可能
であろうか?
  ヨシュア対ヤビン:ヨシュア記11-1~5、10~13
     「ハツォールは昔、これらすべての国々の盟主であった。
     ・・・ヨシュアはただハツォールだけを焼いた。」

  デボラ対シセラ:士師記4-1~3、23~24(5-19~20)

テルの層序は、XⅢ層が1A層と並行関係にある。XⅢ層居住址
はミケーネ土器により年代が確定された。しかしテルの遺物や
遺構は下の町ほど保存状態がよくない(後のイスラエル人がLBA.
層に掘り込んで、さらに建築材として再利用したから)。
XⅢ層とX層(ソロモンの町)との間になお二層発見した。もし
マザール=アハロニ説が正しく、ヨシュア記に記録された決戦が
士師記に語られているものの後で行なわれ、ハツォールが前12
世紀後半にヤビンのもとで最盛期を迎えたとするならば、ヤビン
=シセラ時代のハツォールをこの二層の中に発見しなければな
らないことになる。
先ずXⅡ層は、永続的な建造物をほとんど持たない半遊牧民の
居住址であった。LBA時代の町が壊滅した後に、すぐ別の町が
再建されたのではなく、半遊牧民が暫定的に定住しようとしてい
た様相である。それは一体誰なのであろうか?
決め手の鍵は、住居址やピットから出土した土器片であった。
これらがガリラヤ地方鉄器時代小集落址出土のものと実質的に
同じ(ピトス、アハロニ踏査)であることから、イスラエル遊牧民族
の定住生活化への最古の努力の姿を示している。
XⅡ層は破壊されたヤビンの町の上に存在していた。ヨシュア記
の物語は史実をもとにしており、一方、士師記におけるヤビンの
記述は後代編集者の加筆であったに違いない。
次に、XⅠ層(前11世紀)は防備をもたない集落の姿を示してい
る。X層(LBA時代の町が壊滅した後、300年経過)は、堅固に
防禦されたソロモンの町となった。XⅠ層B地区からは「高き所」
あるいは祭場かと思わせる建造物が出土した。それは、この区
画の南西遇から、青銅製神像(戦の神への奉納物)が発見され
たことによる。この「高き所」の異教的性格は士師記にしばしば
言及される礼拝所(「高き所」)であろう。

2.エジプト呪詛文書

紀元前2千年紀前半(前19あるいは18世紀のはじめ、第12
王朝時代)
西方セム語命名法に混じって、非セム語的な「グティ」(支配者
名)の記載が認められる。

3.マリ文書

錫の交易
ハンムラビのハツォール駐在特師の存在
イブニ・アダド(ハツォール王名)の省略形がヤビン

4.エジプト新王国時代(前16-13世紀)

ハツォールはカナアンの地における征服した町の一つ
(ファラオの勢力圏化にあっただけなのか?)
トゥトモス3世のメギッド攻略

前14世紀前半(1400-1350):
アメノフィス3世(ミタンニ、シリア諸都市との同盟維持)
アメノフィス4世(アマルナ時代。シリア辺境地方はヒッタイト領
へ。カナアンのエジプト従属諸侯の独立運動)
ヨシュア記に述べられているように、ハツォールの支配者のみ
が「王」と名乗り、また他の支配者からも王と呼ばれていた。
アブディ・ティルシ(フリ人?ミタンニ人?系の名)はヤビンより
約100年前の先祖で、強大で野心に満ちた支配者であった。

5.ミケーネ土器による年代推定

下の町の破壊は前13世紀:
1A(最上層)床面――ミケーネⅢB式土器(前13世紀特有)
1B層   ――ミケーネⅢA式土器(アブディ・ティルシの町)
※ フルマルク「ミケーネ土器の消滅は前1230年前後」

ヤディン「ハツォールの滅亡は前1250年と1230年の間」
―>ヨシュア年代ひいてはエジプト脱出年代への考古学上
   の証言の一つ

2層――LBA.Ⅰ(前16-15世紀)の土器、住居用建造物
     (MBA終期の大火災による灰の堆積上)
     トゥトモス3世時代

3、4層―MBA:
      住居床下に乳幼児甕棺葬
      ヒクソス・スカラベ(カナアンにおけるエジプト文化
      浸透)
      聖地出土の最も古い楔形文字刻印の壺
      (バビロニアの影響)

6.下の町の防御施設

MBAの防備:

MBAⅡ期の10~15エーカー程度の居住地域を有する小さな
テル上の町の防備(ラキシュ、シケム、メギッドなど)
周壁の下の防禦用斜堤とその練り土工法、町は斜堤の最上
部に巡らせた壁に囲まれていた。

シリア(カトナ、カルケミシュ、など)やカナアン(ダン)で、守護
しやすいテルの頂に町を建設するのではなく、防衛上不利な
地に下の町を建設した理由は、部族的あるいは人種的に結
合している集団の大規模な移動のゆえであろう。

ハツォールでは、移住集団はテルの北側の台地を選び、その
東側は天然の斜面で・・・居住民は西側で台地を仕切り、巨大
な壕を設け、その内側に掘り出した土砂で土塁を構築した。
そして土塁もまたテルの斜堤とほぼ類似の方法で築造されて
いた。・・・土塁の中心部に、頂部で8m、基部で11~16m幅
のレンガを積み上げた核が存在し、この核は二重構造壁’(ケ
ースメイト)となっていて、その壁間は玄武岩その他の小石や
土塊で埋められている。この中核部分に対し、いろいろな土を
ほぼ垂直に積み寄せた部分は三層をなしていた。(MBAⅡ期
後半)

下の町の門(K地区):

4層(MBA.ⅡB)8㎡の石造基礎の上に建てられたレンガ積み
の塔屋が門道を両側から挟んで建っている。門を土塁に結合
させる方法は1.5m位の厚さの二本の平行壁からなる繋ぎの
壁で結合されている。壁間をつき固めた土砂で埋めてあるか
ら、これは真正ケースメート・ウォールではない。門は土塁と
同時に建設された。
3層(MBA.ⅡC)最初の門を一部破壊して、その上に建てられ
ている。設計、構造、位置を変えている。テルに建てられた
パレスティナの町々に見られるこの時代の「古典的」な城門
である。門道には壁面から突き出した三対の柱が立ち、外側
と内側の柱には扉が設けられている。これにより塔や上屋の
建築を可能にした。この基本構造は鉄器時代を含めて、後代
に踏襲された。さらに、この門は土塁の肩部と真正ケースメー
ト・ウォールで結合されており、パレスティナで最古の出土例
である。
2層(LBA.Ⅰ)前層と同一設計。巨大な仕上げのよい切石で
築かれている。
1層(LBA.Ⅱ、Ⅲ)最後の二門も同一設計であるが、そこかし
こに手直し等の痕が認められる。1A層では、城門の終熄の姿
を示す、灰の厚い集積や門や塔屋のレンガ材を含んだ割れ石
が床面を覆っていた。大火災の中で最終的に破壊された証拠
である。

P地区を緊急調査(1968)した際、1B層門から1A層門への踏
襲に関して、わずかな手直しであったK地区とは趣を異にして、
敷居石近辺が雑な丸石で築かれていた。また、前時代(LBA.
Ⅰ)の城門下部はオートスタットで飾られていたが、城門が破
壊された後、壊されたオートスタットが建築材として再利用され
た。

7.下の町の興亡

年代学:
下の町の創建はMBA.ⅡBであることがハツォールの発掘で明
白となった。このことは、オールブライトの低年代を支持するよう
である。
※ ハンムラビの低年代=前1728-1686年

北方との結びつき:
発掘の結果、LBA.期におけるハツォールに及んだヒッタイト=
ミタンニ文化の強い影響である。カナアンの住民は、イスラエル
人の征服以前、多様な人種からなる複合集団であったことが
改めて出土物が証明した。

破壊:
この巨大な町は前13世紀の後半に大火災とともに終熄し、二度
と再建されなかった。最上層でのミケーネⅢB式土器片の発見
は、前1230年以前にこの町が存在していたことを示す。