セネカ#7-22020/06/23 16:05


 「自分みたいに酷い目に遭った者はいないだろう。家族の
  者は何度自分が死んだと思って泣き悲しんだか、何度医
  者に見離されたことか!」
 などと嘆いて何になる。仮にそれらのことが本当だったとし
 ても、もうそれは過ぎ去ったことだ。自分がそうだったから
 と、過ぎた苦しみを新たに体験し直し、惨めになって、それ
 が何になる?

 自分の味わった苦悩にあれやこれやを付け加えて、自分
 を偽っているだけのことではないのか?

 それだけではない、堪えるのが苦しくてならなかったこと
 でも、それに堪え通したことは快になる。かくして、剪定し
 なければならぬものが二種類ある。
 即ち、未来の災いに対する恐怖と、古い災いの思い出と。
 後者はもう何の関わりもなく、前者は未だ関係がないもの
 だ。

 「いつの日か、このことでさえ思い出すことが喜びになる
  日もあろう」

 自分の苦しみと戦うなら、君は勝つだろう。

 ・2000年間に人類の医学は非常な進歩を遂げたが、病苦
  と人間との関係は根本的に変わらない。そのことは技術
  の進歩と何の関わりもないのである。医学が救うのは肉
  体だが、病と相対するのは人間の心だ。

  (ハ)については、如何にそれがくだらないことかを・・・ど
  こそこ産の牡蠣が食えなくなったとか、馬の肉、猪の肉が
  食えないなどと言って嘆くような贅沢なしに暮らせなくなっ
  た連中にだけ、その欠乏が情けなく惨めに感じられるの
  だ。贅沢に溺れ、身体より心の病に罹った連中にだけ辛
  抱できないに過ぎない。

 そんなことにはすべて我々は容易に堪えてみせる。甘や
 かされた人々や贅沢に暮らしている人々、肉体よりもむし
 ろ心を病んでいる連中に耐え難く見えることすべてに。
 我々はただ死を恐怖することを止めさえすればいいのだ。
 その時、その時だけ、遂に”生”は嫌悪の対象ではなく、
 ”死”は恐怖の対象でなくなる。

 人は多くの様々な、重要な、神的な事柄に深入りするよう
 になれば、自分自身への嫌悪が人生を捕らえることはな
 くなる。自分自身への嫌悪を引き起こすのは常に、なにも
 しないのらくら暮らしだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://shoyuclub.asablo.jp/blog/2020/06/23/9457587/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。