イスラエルの宗教とカナンの宗教#2 ― 1997/04/04 12:48
>神話すなわち神々と戦いと愛の物語では、例えばバビロニヤの
創造の詩のように、宇宙の行く道をそれに適合せしめねばならぬ
特別な一団の説明が語られていた。
~「神話」という言葉を聖書独特の記述(例えば巨大な渕の中心に
天で守られていたわずかな空間としての世界、神の活動としての
歴史解釈、またアダムとエバ、神の契約、奇蹟、イエスの受肉と
復活といったような多くの物語)にも当て嵌めることは、誤解を生じ
やすい。
全体的に見て、多神教徒の神話と聖書ほど大きな差のあるものは
他に類例がない。聖書は何よりも先ず歴史文学であり、人間の生
活から隔絶したものではない。生活と歴史は自然界のリズムによ
る循環ではなく、神の示された方向に動く。
~イスラエル人は、その歴史における特別な一事件を通じて、多神
教徒とは別な方向に神を理解するようになった。それがExodusで
あった。
パロよりも大きく世界の何ものにもまして大きい一つの巨大な力が
その民をエジプトの奴隷状態から救い出した。それを行う間に、
神は自然の力に対する完全な統制力を示し、また少なくとも神の
意志と目的の大綱は明らかにされた。
こうしてイスラエルは歴史に強い興味を持ち、自らの歴史に関連
ある文書を保存した。地上の事件は神の啓示であり、それを人々
に告げることはその人の信仰告白だから。
聖書における神に関する原初の見解は、歴史的事件から推論さ
れた。これが、古代創造神話の非神話化がイスラエルに起こった
理由で、また神はすべての主であるから唯一の創造者であると
推論するに至った理由である。
~イスラエルの人間理解も同様に、多神教徒のそれとは非常に違っ
ていた。人間は責任を負うべき自由を与えられているから、尊厳と
価値をもっていた(人間の尊厳は神によリ与えられた)。
また人間は神の「光」をもたず、神になる能力もなく、神秘的な修行
によって神と一体になりかつ融合することさえできない。神は、
自らが創造したものからの独立を保持する。
~イスラエルが、活動的で力の満ちた多神教徒の自然観を、拒否
したのかどうかは疑わしい。
創世記1章の天体は、多神教徒のように神々ではない。それは
大空に固定された単なる神の光にすぎない。
だが、神には神とともに超自然的な存在のあることが示されて
いる。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1-26)
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(3-22)
ヤコブの夢(28-10~22)は、神の地上への支配が天使や神の
使いを通じてなされるという見解を示す。
~「神の子たち」は、カナンびとの多神教では通常カナンの神々を
指す言葉であって、文字通りに偉大なる神々と女神たちの子供
と信じられていた。その言葉が、神の天なる軍勢を示す言葉とし
てイスラエルびとの社会にも取り入れられている。ここには、太
陽・月・遊星・恒星が含まれていた。信仰の指導者たちは、神以
外の、天地のあらゆるものへの礼拝に対して戦った。
「天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑
わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、
主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである」
(申命4-19)
しかし天体は、イスラエルびとが諸霊なき自然界を考え始めても、
多信教徒の諸概念を徹底的に破棄はできなかった。
「天において/高い天で/御使いらよ、こぞって
主の万軍よ、こぞって/日よ、月よ/煌く星よ・・・
天の御名を賛美せよ」(詩148)
創造の詩のように、宇宙の行く道をそれに適合せしめねばならぬ
特別な一団の説明が語られていた。
~「神話」という言葉を聖書独特の記述(例えば巨大な渕の中心に
天で守られていたわずかな空間としての世界、神の活動としての
歴史解釈、またアダムとエバ、神の契約、奇蹟、イエスの受肉と
復活といったような多くの物語)にも当て嵌めることは、誤解を生じ
やすい。
全体的に見て、多神教徒の神話と聖書ほど大きな差のあるものは
他に類例がない。聖書は何よりも先ず歴史文学であり、人間の生
活から隔絶したものではない。生活と歴史は自然界のリズムによ
る循環ではなく、神の示された方向に動く。
~イスラエル人は、その歴史における特別な一事件を通じて、多神
教徒とは別な方向に神を理解するようになった。それがExodusで
あった。
パロよりも大きく世界の何ものにもまして大きい一つの巨大な力が
その民をエジプトの奴隷状態から救い出した。それを行う間に、
神は自然の力に対する完全な統制力を示し、また少なくとも神の
意志と目的の大綱は明らかにされた。
こうしてイスラエルは歴史に強い興味を持ち、自らの歴史に関連
ある文書を保存した。地上の事件は神の啓示であり、それを人々
に告げることはその人の信仰告白だから。
聖書における神に関する原初の見解は、歴史的事件から推論さ
れた。これが、古代創造神話の非神話化がイスラエルに起こった
理由で、また神はすべての主であるから唯一の創造者であると
推論するに至った理由である。
~イスラエルの人間理解も同様に、多神教徒のそれとは非常に違っ
ていた。人間は責任を負うべき自由を与えられているから、尊厳と
価値をもっていた(人間の尊厳は神によリ与えられた)。
また人間は神の「光」をもたず、神になる能力もなく、神秘的な修行
によって神と一体になりかつ融合することさえできない。神は、
自らが創造したものからの独立を保持する。
~イスラエルが、活動的で力の満ちた多神教徒の自然観を、拒否
したのかどうかは疑わしい。
創世記1章の天体は、多神教徒のように神々ではない。それは
大空に固定された単なる神の光にすぎない。
だが、神には神とともに超自然的な存在のあることが示されて
いる。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1-26)
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(3-22)
ヤコブの夢(28-10~22)は、神の地上への支配が天使や神の
使いを通じてなされるという見解を示す。
~「神の子たち」は、カナンびとの多神教では通常カナンの神々を
指す言葉であって、文字通りに偉大なる神々と女神たちの子供
と信じられていた。その言葉が、神の天なる軍勢を示す言葉とし
てイスラエルびとの社会にも取り入れられている。ここには、太
陽・月・遊星・恒星が含まれていた。信仰の指導者たちは、神以
外の、天地のあらゆるものへの礼拝に対して戦った。
「天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑
わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、
主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである」
(申命4-19)
しかし天体は、イスラエルびとが諸霊なき自然界を考え始めても、
多信教徒の諸概念を徹底的に破棄はできなかった。
「天において/高い天で/御使いらよ、こぞって
主の万軍よ、こぞって/日よ、月よ/煌く星よ・・・
天の御名を賛美せよ」(詩148)
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